孤高のストライカー、マルコ・ファン・バステン——...
SHARE
色彩の魔術師が遺したメッセージ──エリック・カールが世界と日本の子どもたちに伝えたかったこと
ビジョナリー編集部 2026/05/27
東京都現代美術館で開催中の「エリック・カール展 はじまりは、はらぺこあおむし」(2026年4月25日〜7月26日)。日本語版50周年を記念した会場に一歩足を踏み入れれば、あの鮮やかで温かい色彩の世界が広がります。時代や国境を越え、未知の世界へと向かう子どもたちの心を掴んで離さないのはなぜでしょうか。今回は、名作に込められたメッセージや独自の技法、そして深い「日本への愛」の物語を紐解きます。
独創的なコラージュ技法と、赤ちゃんの脳を刺激する色彩の秘密
カールの絵を近くで見ると、単一の色ではなく、複雑な色の濃淡や筆跡、ドットなどの模様が重なり合っていることに気づきます。彼は「コラージュ(貼り絵)」の達人でした。
その制作過程は、まず薄いティッシュ・ペーパー(薄紙)にアクリル絵の具で色を塗り、筆や指、ときにはスポンジやカーペットの切れ端を使って独自のテクスチャ(模様)を描くところから始まります。こうして作られた何百枚もの色紙をストックしておき、描きたい形に切り抜いて、ピンセットで台紙に貼り合わせていくのです。この立体感と深みのある色彩こそが、「色彩の魔術師」と呼ばれる理由です。
この独自の技法から生まれる鮮烈な色彩は、まだ視力が未発達な赤ちゃんの脳にとっても、素晴らしい刺激になります。コントラストのはっきりした純度の高い色は、赤ちゃんの未熟な視覚でも捉えやすく、脳の視覚野を強く刺激するのです。さらに『くまさん くまさん なにみてるの?』のようなリズミカルな言葉の掛け合いも相まって、彼の絵本は世界中で最初のコミュニケーションツールとして選ばれてきました。
実は、絵本では真っ白に見える背景にも、実際の原画にはペイントを修正した跡や、うっすらとした筆跡、鉛筆のスケッチ線がそのまま残されています。カールは、子どもたちは完璧な完成品よりも、人間の手で作られたプロセスを見るのが好きなのだと語り、あえてその泥臭くも美しいアトリエの息遣いを残していました。原画を間近に覗き込むと、その生々しいクリエイティビティの痕跡に大人もハッとさせられます。
絵本に託したメッセージと、世界への「架け橋」
カールは生前、自身の作品の根底にあるメッセージを明確に語っていました。心血を注いだ絵本たちには、子どもたちの人生を全肯定する普遍的なテーマが込められています。
まず、代表作『はらぺこあおむし』が伝えるのは、未来への絶対的な「希望」です。少年時代に第二次世界大戦を経験した彼は、成長への不安を抱える子どもたちへ向けて「君もいつか美しい蝶になって羽ばたけるよ」という強い願いをあおむしに託しました。ページに開いた穴に指を入れる有名な仕掛けも、触覚を通じて脳の活性化を促す、グラフィックデザイナー出身ならではの工夫です。
次に『パパ、お月さまとって!』が伝えるのは、他者への無条件の「愛」です。自身の娘のために描いたとされる本作は、大好きな人のために奮闘する父親の姿を通して、家族の温かい絆を表現しています。壮大な仕掛けページの楽しさは、子どもたちの心に思いやりの優しさを届けてくれます。
そして、人生を通して大切にしたテーマが「友情」です。幼少期にアメリカからドイツへ移住した際、親友と引き裂かれた切ない実体験が原動力となり、『ね、ぼくのともだちになって!』などの名作が生まれました。
さらに『くもさん おへんじどうしたの』では、「自分の役割を生きること」の大切さを伝えています。まわりの動物たちに流されず、自身のやるべき巣作りに没頭するくもの姿を通して、コツコツと自分を全うすることの美しさを静かに語りかけました。
こうしたメッセージの背景にあるのが、「絵本は『架け橋』である」という彼の哲学です。おもちゃから本へ、そして家庭から学校や社会へと向かう子どもたちのために、作品がその役割を果たすと考えていました。温かい家庭から一歩外へ出るのは、子どもにとって大冒険。だからこそ、曜日や数、自然の摂理といった「学ぶ要素」を楽しい遊びの中に忍ばせました。「知らない世界を知ることは、こんなに楽しいんだよ」と伝えることで社会への不安を消し去り、その背中を優しく押してくれるのです。
日本の特別な馴れ初め
実は大変な「親日家」として知られていたカール。日本との深い絆には、和紙への感動というエピソードがあります。過去に訪日した際、東京の手作りの紙の専門店を訪れ、その美しい染めの技術に深い感銘を受けました。自分が色をつけた紙そのものが好きだと語る彼にとって、日本の職人が生み出す和紙の質感や色彩は、自身のコラージュ魂を揺さぶる最高の芸術だったのです。
また、日本の絵本作家・いわむらかずお氏との間には、国境を越えた深い友情がありました。2人はアイデアを交わし合い、左の表紙と右の表紙のどちらからでも読める前代未聞の合作絵本『どこへいくの? To See My Friend!』を出版しています。東日本大震災の際には、被災地へのエールとして希望と友情の象徴である鳥の絵が贈られるなど、その絆は生涯続きました。
ニューヨーク・タイムズの表紙を飾った「エプロン姿」と、最期まで描き続けた晩年
ニューヨークの街とも長い歴史があります。20代の若き日にドイツからアメリカへ戻った際、世界的なデザイナーであるレオ・レオーニの紹介で、名門紙『ニューヨーク・タイムズ』のグラフィック・デザイナーとしてキャリアをスタートさせました。絵本作家としての原点は、あの新聞社のデザイン室にあったのです。
それから約70年が経った2021年12月、同紙の別冊である『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の表紙を、ある遺品が飾ることになります。それは、アトリエで創作する際にいつも身にまとっていた、絵の具の汚れが無数に染み込んだスモック(エプロン)の写真でした。
2021年に91歳で亡くなる直前まで、マサチューセッツ州のアトリエに立ち続けました。晩年は体に不自由なところを抱えながらも、お気に入りのイタリア製の革靴を履き、そのエプロンを身にまとって、若い頃と変わらない情熱で薄紙に色を塗り、ハサミを動かし続けたのです。表紙を飾ったその泥臭くも美しいエプロンは、生涯を子どもたちのために捧げた職人であり、芸術家であったその生き様そのものを象徴しています。
大人になった今こそ、もう一度
子どもの健やかな成長を願い、世界を肯定し続けたエリック・カール。彼の絵本は、大人の社会の荒波をくぐり抜けてきた今の私たちにこそ、深く刺さるものがあります。複雑に絡み合った人間関係や、慌ただしい日々の中で見失いがちになる「人とのつながりの本質」や「生きることの原点」が、シンプルな言葉と圧倒的な色彩の中に、驚くほど純粋な形で示されているからです。
その原画が見せる鮮やかなエネルギーは、今を生きる私たちの心にも「希望」の光を灯してくれます。ぜひ、現在開催中の展覧会で、その魔法のようなコラージュの息遣いと、最期まで愛を紡ぎ続けたアトリエの気配を感じてみてください。


