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「神の手」と伝説のドリブル――マラドーナが世界を魅了し続ける理由
ビジョナリー編集部 2026/04/08
サッカー史において、“天才”と“人間らしさ”をここまで極端に体現した選手は他にいません。なぜ彼は、世界中の人々を惹きつけてやまないのでしょうか。規格外の才能と情熱、そして数々の奇跡で人々を魅了した彼の人生を振り返ります。
世界を揺るがせた「神の手」と奇跡のドリブル
1986年、メキシコで開催されたワールドカップの準々決勝。アルゼンチンとイングランドが対峙したあの日は、サッカーの歴史に残る90分でした。25歳だったマラドーナが見せたのは、世界を驚愕させる2つのゴール。ひとつは“神の手”と呼ばれる、主審の目を欺いた手による先制点。そしてもうひとつは、ピッチの中央からボールを持ち運び、相手を置き去りにした“伝説の5人抜き”でした。
現代ならば、あの先制ゴールは無効となっていたことでしょう。しかし当時、主審も副審も見抜けなかった魔法。イングランドの選手たちは激しく抗議しましたが、判定は覆りませんでした。
夢を現実に変える“力”
なぜ、マラドーナはこれほどまでに人々を動かしたのでしょうか。彼のキャリアを振り返ると、「無理だ」と言われていたことを次々と成し遂げてきたことに気付きます。イタリア南部のナポリというクラブに移籍した際もそうです。前シーズンはギリギリで残留したチームが、彼の加入で一気に欧州の頂点を目指す集団へと変貌しました。7万人のファンが熱狂し、瞬く間に、街そのものが希望を取り戻していきました。
そして、セリエAでの2度の優勝、コッパ・イタリア、UEFAカップ獲得という快挙を成します。彼がナポリにもたらしたのは勝利やトロフィーだけではありません。貧しい子どもたちに「夢を見ていいんだ」と信じさせ、街の誇りそのものとなったのです。いまでも街の至るところに彼の壁画が残り、地元の人々が彼を“聖人”のように語るのは、その証といえるでしょう。
苦しみと歓喜の両極を生きた
マラドーナの人生は、決して順風満帆だったわけではありません。プロデビューした16歳のころから、その才能ゆえに激しいタックルやファウルの標的となり、ピッチの外でも数々のスキャンダルに苦しめられました。それを示す様に、ワールドカップでは、1大会で最も多くのファウルを受けた選手として記録されています。彼自身、「ピッチの内外で多くの攻撃を受けた」と語っていますが、それでも「ボールを通じて人々を幸せにできたことが一番の誇りだ」と、晩年のインタビューで語っています。
また、ヨーロッパでの挑戦も波乱に満ちていました。バルセロナでは負傷や乱闘、クラブ首脳陣との関係悪化に苦しみましたが、その後のナポリ移籍は史上最高額(当時)で成立。さらに、オファーを受けていたマルセイユへの移籍が土壇場で破談になるなど、決断のたびにサッカー界が騒然としたのです。
代表の10番として刻んだ伝説
アルゼンチン代表での活躍も忘れてはなりません。1978年大会こそメンバー外でしたが、1986年のメキシコ大会では5ゴール5アシストという驚異的な成績を残し、母国を2度目の世界一へと導きました。グループリーグから決勝まで、チームの71%の得点に直接関与したというデータは、いかに彼が“エース”であったかを物語っています。
さらに、1990年にはコンディション不良やチーム力の低下にもかかわらず、再び決勝まで進出。彼のリーダーシップと勝負強さはチームを支え続けました。1994年大会ではドーピング問題により大会途中で姿を消しますが、代表通算91試合34ゴールという数字は、今もアルゼンチンの誇りです。
“伝説”が遺したもの
現役引退後も、サッカーへの情熱は衰えませんでした。2010年の南アフリカワールドカップではアルゼンチン代表監督として采配を振るい、選手としても監督としてもワールドカップに挑んだ数少ない人物となりました。監督業では苦難も多く、国内外で様々なクラブを率いながら、母国への愛と情熱を貫きました。
2020年、マラドーナは60歳でこの世を去りました。しかし、その存在は文化や社会現象となっています。彼の名前を冠したスタジアムや、今も歌い継がれるチャント、世界中のファンが語り継ぐエピソード。彼が生涯をかけて証明したのは、「信じる力があれば、どんな夢も叶う」ことでした。
圧倒的な困難や逆境の中でも、彼は決して諦めず、ボールを蹴り続けることで新しい景色を見せてくれました。その軌跡はこれからも語り継がれ、サッカーを愛するすべての人の心に生き続けることでしょう。


