
GHQ統治下における日本人の在り方
10/12(日)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/09/24
1946年、市ヶ谷の旧陸軍士官学校跡地で開廷された東京裁判は、戦争を遂行した日本の指導者たちの「罪」を問う場となりました。判決の結果は、被告人全員が有罪と宣告される非常に厳格なものでした。
この裁判には、複雑な二面性が存在していました。一つは『勝者による敗者への裁き』という側面であり、国際法上の論争が現代も続くほど、議論の的となっています。
もう一つは、『国民が戦争の実態を知る役割』という側面です。この裁判は、日本の指導者を即決処刑するのではなく、公開の法廷で彼らの行動と思想を明らかにするプロセスを経ました。それにより、国民がそれまで知らなかった戦争の実態を知るという、歴史教育的な役割を大きく果たしたという指摘もなされています。
これは、一つの出来事を単一の価値観で判断することの危険性を示しており、多角的な評価の重要性を教えてくれます。当時の日本国民の意識調査では、東京裁判に対する支持と批判はほぼ同じ比率に分かれ、社会が真に抱く「納得」と公式な結論との間に、大きな溝があったことが分かります。
東京裁判の核心は、「侵略戦争を遂行する犯罪的共同謀議」(侵略戦争の計画、準備、開始、遂行を行うため、数人が共同で犯罪の実行を相談し、合意したこと)という法概念で、組織全体の意思決定プロセスに責任を求めるものとなりました。
裁判中、首席検察官のキーナン氏は、被告人たち全員から「この責任は自分にはない」という共通の弁明を聞いたと指摘しています。つまりは、個人の意思で決定したことではないために、誰がこの判断を下したかという点において曖昧で、責任転嫁をしてしまうのです。これは今日の日本の企業体質でも言われる「責任の所在が曖昧な日本型責任転嫁の構造」の表れでもあります。そのため最終的には、最高意思決定者たちが、その役割に応じた責任を問われることとなりました。
しかし、この裁判の物語が単なる無責任の暴露で終わらなかったのは、法廷の向こう側で、究極の問いに直面した個人の矜持が垣間見えたからです。被告人たちが残した「最後の言葉」は、彼らが直面した究極の問いを物語っています。開戦時の首相・東條英機は、国際法上の犯罪としては無罪を主張しながらも、「国内的の自らの責任は、死をもって贖(あがな)えるものではない」と、国民に対する道義的責任を語りました。彼は、法廷の論理では屈服したと述べつつも、自らが組織のトップとして果たせなかった国民に対する責任を強調しました。被告人たちはただ戦争の責任を逃れ、すべての罪から逃れたかったのではなく、組織の庇護(ひご)を失った時でさえ、自己の責任と向き合っていたのです。
東京裁判が私たちに突きつけたのは、単に戦争の是非ではなく、「組織の論理」が集団を暴走させ、個人がその責任から逃れようとする時、何が起こるかという普遍的な問いなのではないでしょうか。
現代においても、同じような「責任転嫁」は見られます。例えば企業の不祥事において、トップが「知らなかった」「部下が勝手にやった」などと発言する姿が象徴しています。この「責任転嫁」の病理を乗り越えるためには、組織における各役割の責任範囲を明確にする必要があります。
一方で、たとえば政治家の不祥事に対して、「辞任」という形で、十分な説明責任と今後の対策に取り組まずに終えることも、責任を果たしているとは言い難いのではないでしょうか。真に責任をとるとは、個々人の責任範囲を明確にした上で、「辞める」「謝罪する」といった行動で終わらせ問題を曖昧にすることなく、失敗の原因を解明し、対策を講じて再発防止に努めることといえます。
そして、こうした組織体制は、法規制や表面的な制度だけでなく、リーダー自らが、問題を矮小化せず、自ら責任を負う姿勢を示すことで初めて可能となります。 現代を生きる私たちは、しばしば日々の業務に追われがちですが、自分は何のために働き、どのような影響を社会に与えているのか、方向性をしっかりと見据えて、個々人の責任を自覚し、組織全体として正しい方向に進むための努力を怠らないことが大切なのではないでしょうか。
復員兵たちの戦後再起