
東京裁判が明らかにした組織の「責任転嫁」の構造
10/12(日)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/09/25
1946年6月、復員船「氷川丸」が浦賀港にその巨体を滑り込ませました。何年ぶりかに祖国の土を踏む兵士たちの頬を、涙が濡らします。しかし、彼らが命を賭して守ろうとしたはずの日本は、そこにはありませんでした。目の前に広がるのは、見渡す限りの瓦礫と焼失した家屋。彼らが戦地で夢見た故郷は、文字通り焦土と化していました。
終戦直後の鉱工業生産力は戦前の3割以下にまで落ち込み、国家の富は事実上消滅。金融システムは機能不全に陥り、政府は戦時国債を乱発するも、すぐに紙くずと化し、天文学的なインフレーションが国民生活を襲いました。
「復員直後に食べたところてんは、戦前の5銭から10円へ、200倍に高騰していた。その一杯のところてんに、国家経済の死を実感した」――のちにワコール創業者となる塚本幸一は、当時の状況をそのように語りました。
食糧は絶望的に不足し、政府の配給制度は崩壊、人びとは栄養失調で次々と倒れていきました。「お国のため」「天皇陛下のため」という、国民の心を支えていた絶対的な目的が、『敗戦』の二文字で一夜にして消滅したのです。
価値観の劇的な転換は、社会の隅々にまで及びました。戦時中、絶対的な価値を持っていた「名誉」「国家」「忠誠」といった抽象的な理念はその輝きを失い、一方で、生きるために最も本質的なもの――すなわち一杯の米、一本のさつまいも、雨露をしのぐ屋根といった、人びとの生存に不可欠な「実物」が、何よりも価値を持つようになりました。
また、外的なストレスが人びとの内面を侵食し、見えざる戦場へと変えていきました。「戦争神経症」、現代でいう心的外傷後ストレス障害(PTSD)が、数百万の復員兵の心を、静かに蝕んでいたのです。当時の大日本帝国は、「我が国に軟弱な皇軍兵士はいない」という建前のもと、兵士の精神的苦痛の存在自体を表立って否認してきました。しかし、後年の研究で米軍兵士の罹患率を参考に日本の数字を計算すると、日本の復員兵のうち最大400万人がPTSDを患い、実に5世帯に1世帯が、心の傷を負った元兵士を抱えていた可能性が、指摘されています。
兵士たちは戦場の生々しい記憶に苛まれました。我が子と同じ年頃の子供を殺さねばならなかった罪悪感、絶え間なく聞こえる砲弾の幻聴と敵兵の幻覚、友が隣で死んでいく中、自分だけが生き残ってしまったという強烈な罪悪感――それらが起因となり、彼らの人間性を内側から破壊していったのです。多くの復員兵は定職に就けず、アルコール依存が蔓延し、戦場で常態化した暴力は、身近な弱者、すなわち妻や子供たちに向けられるようになっていきます。ある娘は、「父が帰ってきてから、家には怒りと恐れが渦巻いていた」と証言しています。
彼らの狂気は、個人の弱さではなく、戦争という巨大な暴力の延長線上にありました。しかし、当時の日本社会には、彼らの苦しみを受け止めその意味を問い直す余裕も、意志もなかったのが事実です。国家全体が敗戦のトラウマと向き合うことを避け、ひたすら復興へと突き進む中で、復員兵の心の傷は「個人的な問題」として放置され、あるいは「恥」として隠蔽されていきました。彼らの犠牲を正当化し、その苦しみに意味を与える大義が存在しなかったこと、この「国家的目標の欠如」が、個人の回復をさらに困難にした原因でもあります。
この状況は、現代の組織が大きな失敗を経験した際に、単なる戦略の転換だけでなく、その失敗の意味を再定義し、新たな共通の目的意識を築くことが、構成員の再起にとっていかに重要であるかを示唆しています。
しかし、国がその共通の目的意識を提供できなかった時代にも、後に日本を代表する起業家となる一部の復員兵たちの中には、自らの手で、自らの体験の中から、その「新しい軌跡」を創造しようとする者たちがいました。
その筆頭に挙げられるのが、先に述べたワコールの創業者、塚本幸一です。彼は、日本陸軍史上最も悲惨と言われるインパール作戦の生き残りでした。食料も弾薬も尽き果てたジャングルで、飢えと病で仲間たちが次々と倒れていく地獄、「白骨街道」を歩き続けました。奇跡的に生還した彼は、自らの生を「生かされた命」と捉え、死んでいった52名の戦友の魂と共に生きることを誓い、京都の自宅に帰り着いたその日のうちに、「和江商事」(後のワコール)の創業という形で結実するのです。
彼の事業は、単なる商いではなく、戦争という究極の破壊を体験したからこそ、平和の象徴である女性を美しくすること、人びとの生活に彩りと豊かさをもたらすこと、すなわち「創造」そのものが、彼の生涯をかけた使命となりました。
ダイエーの創業者、中内㓛を突き動かしたのもまた、強烈な戦争体験でした。フィリピンの戦線で、彼は極度の飢餓を経験し、人間が極限状態に追い込まれたとき、仲間を食らうのではないかという噂が飛び交うほどの、人間の尊厳が崩壊する様を目の当たりにしました。この体験は彼に、「飢えこそが最大の悪であり、豊かな食こそが平和の礎である」という生涯変わることのない信念を刻み込みました。
彼が興したダイエーの経営理念、「よい品をどんどん安く」は、単なる価格戦略ではなく、日本の食卓を豊かにすることで、二度と国民を飢えさせないという、彼自身の壮絶なトラウマから生まれた、壮大な社会革命への挑戦だったのです。阪神淡路大震災の際、政府よりも早く被災地に物資を届けた彼の迅速な行動は、その使命感がいかに深く根差していたかを証明しています。
そして、陸軍のエリート参謀からシベリア抑留という奈落の底を経験した瀬島龍三は、その特異な経歴を総合商社・伊藤忠商事で開花させます。陸軍大学校を首席で卒業し、大本営で作戦立案の中枢にいた彼は、国家レベルの戦略的思考と情報分析能力を体得していました。11年間の抑留生活を経て、44歳で社会人経験ゼロから伊藤忠に入社すると、彼はその軍隊式の思考法をグローバルビジネスに応用しました。
瀬島が創設した業務部は、個別の商いを俯瞰し、地政学的リスクを分析し、長期的な国家戦略にも匹敵するような大規模プロジェクトを立案・実行する、いわば「商社の参謀本部」でありました。彼は、戦争で学んだマクロな視点と戦略性を、平和のための経済活動という全く新しい戦場で駆使し、一繊維商社を世界的な総合商社へと押し上げていったのです。
彼らの強烈な体験と、それを乗り越えた強靭な精神力は、戦後日本の経済発展を支える多くの企業家たちに共通する特質です。彼らは、自らの過酷な体験を糧に、戦後の荒廃した日本を立て直すため、そして二度と戦争の悲劇を繰り返さないために、経済の発展を通じて平和を築くことを自らの使命としました。
戦後日本の復興と経済発展は、こうした創業者たちの不屈の精神と、彼らが築き上げた企業文化によって大きく支えられました。彼らの軌跡は、困難を乗り越え、新たな価値を創造する力が、どのようにして個人や社会を変革していくかの見事な証しであり、現代に生きる私たちにとっても大きな学びとインスピレーションを与えてくれます。
あなたのキャリアにおける最大の失敗、最も痛みを伴った経験は何でしょうか。もしかしたら、その瓦礫の中にこそ、次のステージを照らす、本物の使命の種が埋まっているのではないでしょうか。私たちの人生やキャリアにおいても、大小さまざまな「終戦」が訪れます。しかし、それは終わりではなく、あなたの人生で最も重要な仕事を始めるための、本当の始まりなのかもしれません。
写真提供:歴史サークル「中島三郎助と遊ぶ会」