
満州事変と国際連盟脱退
9/9(火)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/09/04
1937年、盧溝橋事件をきっかけに始まった日中戦争は、瞬く間に中国全土へと広がりました。上海や南京といった大都市では激しい戦闘が繰り広げられ、街は瓦礫と化し、市民は避難民として流浪の身を余儀なくされました。長江流域では、船に乗りきれない人々が川岸にあふれ、赤子を抱えた母親が泣き叫ぶ姿が、記録に残されています。
この戦争は、中国にとって「国の存亡をかけた抗戦」でした。国民党の蒋介石は当初、共産党との内戦を優先していましたが、日本軍の侵攻に押される形で共産党との「国共合作」に踏み切り、抗日を最優先の課題と定めました。蒋介石率いる南京政府は、圧倒的な軍事力を持つ日本相手に短期決戦では勝てないと判断し、国土を広く使い、時間をかけて戦うことで日本を疲弊させようと考え、持久戦へと持ち込みます。
一方で、共産党も八路軍や新四軍といった軍を組織し、農村に拠点を築きながら日本軍へのゲリラ戦を展開しました。彼らにとって日中戦争は、単なる抗日戦争にとどまらず、農民の支持を広げ、中国全土に自らの支配基盤を広げていく歴史的な機会でもありました。抗日という大義のもと、国民党と一時的に協力しつつも、実際には主導権を握るための熾烈な駆け引きが続いていました。
日本軍の戦争の進め方には大きな歪みがありました。盧溝橋事件にも象徴されるように、しばしば前線で小競り合いが発生し、それを「現地判断」として拡大する形で、戦線が広がっていきました。政府や参謀本部は後追いで追認するしかなく、国家として明確な戦争目的や出口戦略を持たないまま、泥沼へと足を踏み入れていったのです。
また、日本側では「短期決戦で中国は屈服する」との楽観的な見立てが繰り返されましたが、実際には中国側の抵抗は激しく、戦線は広大な国土に拡大していきました。日本軍の補給線は伸びきり、現地統治は住民との摩擦の連続でした。昼は日本軍の監視下に置かれ、夜は八路軍が現れる。住民たちはその狭間で翻弄され、占領統治は常に不安定に揺さぶられました。
蒋介石は「持久戦の果てに、世界情勢が変わり、日本は孤立する」と予測していました。そして、共産党が抗日の名の下で勢力を拡大する一方で、日本は戦争の出口を描けぬまま、軍の現地判断が国家を引きずり、泥沼へと沈んでいく──。日中戦争は、こうして長期化と複雑化を重ねていったのです。
混乱の中、近衛文麿内閣は1938年、「東亜新秩序声明」を発表しました。中国との戦争を単なる国と国との争いではなく、日中満が協力して新しい東アジアを築くのだ、という大義名分を打ち出したのです。軍部にとっては泥沼の戦いに正当性を与える格好の言葉となり、新聞は大々的に「新秩序」の到来を謳い上げました。庶民の間でも「これで戦争に出口が見えるのでは」と一瞬の期待が広がり、財界もまた、中国市場の安定と経済的利権拡大に希望を寄せました。
しかし、現実は甘くなく、どれだけ日が経過しても戦局が好転することはありませんでした。物資不足や物価高騰は深刻化し、人々の生活はますます苦しくなっていきました。財界も治安の悪化に直面し、次第に「新秩序」という言葉が理想論にすぎないことを痛感するようになります。政府内でも、このスローガンがあまりに抽象的で、具体的な戦争の出口を示すものにはなり得ないという疑念が拭えませんでした。
さらには、国際社会の反応も冷ややかでした。英米諸国はこの声明を「侵略の正当化」とみなし、中国支援の姿勢を強めていきました。当初、日本政府は「日中戦争」という言葉を避け、「支那事変」と呼びました。そう呼ぶことで、あたかも戦争ではないかのように印象づけようとしたのです。しかしその実態は、広大な中国大陸を舞台に繰り広げられた、まぎれもない全面戦争でした。理由も、出口も、誰ひとり明確に語れぬまま、ただ戦闘だけが続き、多くの一般市民が犠牲となっていったのです。
その背景には、日本側の楽観がありました。「中国はすぐに屈する」──そう信じていたのです。過去に満州事変を独断で始めた関東軍が、結局は成功してしまい、その成功体験が「結果を出せば許される」という、認知の歪みを生み出していました。やがて戦争が泥沼化して初めて、大義を求めはじめます。そこには深い矛盾が潜んでいたのです。
組織というものは、それ自体が意思を持つわけではありません。組織を構成する一人ひとりの“意志のうねり”が、組織を良い方向にも、悪い方向にも導くのです。だからこそ、現代に生きる私たちも、有事の戦争に限らず、経済や文化といった平時の営みの中で「慣例」や「成功体験」に安住するのではなく、社会をより良くするという志、理念を持って行動し続ける必要があるのではないでしょうか。
理念に生きた人として、日本映画界の礎を築いた実業家・梅屋庄吉がいます。彼は単なる事業家ではなく、若き日に香港で孫文と出会い、「アジアを平和に導く」という壮大な理想に心を揺さぶられ、一生涯の友情を誓いました。梅屋は、自らの利益ではなく、友情のため、人のため、理想のために奔走しました。資金を稼ぎ続け、中国へと送り続けた寄付金の総額は、今日の価値にしておよそ1兆円とも言われています。 孫文が亡くなり、日中関係が悪化してからも、彼はただひたすら日中友好のために動き続け、1934年、66歳でその生涯を閉じました。理念に共鳴し、国境を越えて人のために尽くした梅屋庄吉の姿は、今を生きる私たちに問いかけています。
『私たちは、野心のために動くのか。それとも理念のために団結し、平和を築いていくのか。』
未来を決めるのは、私たち一人ひとりの意思なのです。
満州事変と国際連盟脱退
アメリカとの対立と経済制裁