
ファミレスへの興味から百貨店へ ——接客業への夢
4/28(月)
2025年
大西 洋 2025/04/04
慶應義塾大学に進学したのは、1年間の浪人生活を経てのことだった。受験期には英語に集中して取り組み、それが功を奏して商学部に合格することができた。だが、大学生活の主軸に据えていたのは、実のところ学問ではなかった。大学に入ったというより、体育会のゴルフ部に入ったと言ったほうがいいかもしれない。高校時代は、別段、勉強をそこまで好きではなかったし、普通に就職活動をしてサラリーマンになるよりもスポーツで生活できるようになれればいいと思っていた。高校を出たらプロゴルファーを目指すか大学に行ってゴルフ部に入るかみたいな感覚で、大学のゴルフ部に入ったわけである。
実はゴルフは小学生のときから、プロを目指して挫折したというAさんという人から習っていて、その実力を評価されていたこともあって、自分の中には密かな自信があった。Aさんは私の通っていた小学校の警備員さんで、自分の夢を誰かに託したいと思っていたようである。そんなときに私と出会ったのだが、それもきっかけは母だった。何かというと仕事の行き帰りに学校に来ていた母は、自然とAさんと顔見知りになり、たまにお弁当を届けたりしていたようなのだ。5年生ぐらいだったと思うが、放課後の誰もいなくなった校庭で、毎日スポンジボールを打つようになっていた。そこそこ筋が良かったようなのだが、その後も中学・高校と進んでも教えてもらっていた。そこで、プロになるかならないかは別にして大学4年間はゴルフでやっていけるかな、と思っていたのである。
当時はボウリングが全盛で、アベレージ180ぐらいでプロになれていたので「それならできるかも」と思ったりもしていた。のんきなものである。
ところが、念願の体育会のゴルフ部に入ったものの1年でやめて、同好会のゴルフ部に入ることになった。情けない話なのだが、ゴルフ部に入った同期15人のうち13人が付属高校から上がってきたメンバーだったのだ。彼らは高校のときから一緒にゴルフをやっているわけである。私ともう一人だけが外部進学組で、その一人も途中で辞めて私一人だけ残されてしまった。13対1という関係性の中で感じた疎外感は、想像以上に大きなものだった。しかし、それでもゴルフをやめるという選択肢はなかった。競技への熱は冷めず、私は同好会のゴルフ部に活躍の場を移すことにしたのである。そこでは、自分のペースで練習に取り組み、仲間とも良好な関係を築くことができた。
一方、家庭の経済事情から、夕方からは、家庭教師のアルバイトに励み、小学生・中学生・高校生3人をそれぞれ週2回ずつ担当し、ほぼ毎日のように働いていた。授業準備や移動の負担もあり決して楽ではなかったが、自分の力で学生生活を4年間やり続けたことは、誇りに思っている。
学業については、ゼミにも所属せず、いわゆる勉強面では腰の重い学生だった。しかし、大学時代を楽しく過ごせたのは、その頃から50年以上にわたって今も続いている大切な趣味の競馬と出会えたことである。
高校時代の友人である競馬好きの東大生と相談して、「スポーツニッポン(スポニチ)の六大学競馬リーグ」という企画を立ち上げ、実際にスポニチに自分たちの書いた記事を連載してもらえるまでになった。水曜日や木曜日に取材のために競馬場を訪れ、自ら原稿を執筆するという経験は、今思えば、非常に実践的で、とても楽しく、充実した時間だった。