
ゴルフ部とスポニチの六大学競馬リーグ
4/28(月)
2025年
大西 洋 2025/04/03
桐蔭学園中学校は、非常に厳しい学校だったが、ここで過ごした3年間が学生生活の中で最も楽しい時期だったと思う。多くの友人に恵まれ、学業成績も安定していた。自分自身の内面的な成長も実感できる、実り多い時間だったと思う。本当に桐蔭学園に来てよかった、このまま高校に上がっていけたらいいなと思っていた。
しかし、そのまま高校に進学することはなかった。母には長兄の受験に関する苦い経験があった。桐蔭は高校までしかなく、大学進学には再び受験が必要となる。たとえ中高一貫で成績が良くても、大学受験に失敗して浪人するリスクは大きい。そうした懸念から、母は私を大学までエスカレーター式で進学できる学校に進ませたいと考えたのだ。
私自身は「このまま桐蔭に残りたい」という意思をもっていたのだが、まだこちらも14、15歳で弱かったということなのだろう。母は強い人間だったので、母の強い意志に抗えなかった。しかも、成績的にも母の希望するような高校を目指せる位置にいたことも、判断を後押しする材料となった。
しかし、受験した高校には全部落ちてしまった。 結果として、桐蔭への復学もできず、浪人するか、別の高校へ行くかという選択を迫られた。最終的に進んだのは、たまたま合格した麻布高校だった。そこは学生運動の真っ只中にあった。時は1970年代、東大の安田講堂で学生と自衛隊が闘争を繰り広げた事件のあった2年後のことである。
自由な校風だということは聞いていたのだが、大学で起きているような学生運動が高校で起こっていた。約6か月にわたって生徒が学校を閉鎖するロックアウトをはじめ、混乱の渦中にあった。3年間で実質的に授業があったのは1年半ぐらいだったと思う。生徒たちも、授業も受けずに学生運動に没頭している生徒、スポーツしかやっていない生徒、学校がなくても自宅で一生懸命勉強している生徒に分かれていた。
私はそのどれにも当てはまらないので、非常に辛い思いをしていた。なぜそのまま桐蔭に行かなかったのかと悩み、母に当たったこともあったが、結局は自分が決めたことである。 学校中に溢れるすごいエネルギーを感じていたのも事実で、これからの時代には良いのだろうが、当時の私にとっては「混迷をもたらす学校」だった。
しかし、それから約40年経って伊勢丹の社長になったときに思いがけずこの経験が役立ったと気づくことになる。麻布出身者とのネットワークが、思わぬ形で支えになったのだ。麻布を出て大企業のトップになっている人たちが何人もおられたのだが、その人たちのお誘いを受けてOBたちで作る「社長会」に入れてもらえて、非常に助かったのである。
結局高校3年間は本当に勉強しておらず、大学受験に向けての自分のモチベーションも下がっていたため、大学に行くためには推薦入学の道しか残されていなかった。都内有数の受験校ということもあり、同級生300人中の上位150人以内にいれば私立のそこそこの大学に推薦で入学できたのだ。そこで推薦を狙おうと思ったものの結果的に推薦も受けることなく、浪人を選択。1年間、英語の学習に専念し、翌年、慶應義塾大学商学部に進学することとなった。