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11月17日は「将棋の日」|その由来と、古代インドからAI時代まで続く奥深き歴史の旅
ビジョナリー編集部 2026/11/05
毎年11月17日は、日本の伝統文化であり、知的な戦略ゲームとして愛されている「将棋の日」です。将棋には数百年、あるいは千年以上を跨ぐ壮大な歴史と、日本独自のドラマが秘められています。
なぜこの日が記念日に選ばれたのか、そしてどのようにして日本に伝わり、現代へと受け継がれてきたのでしょうか。今回は、その由来から、古代インドをルーツとする歴史、そしてAIが台頭する現代に至るまで、その全貌を紐解いていきましょう。
記念日の由来とは?
1975(昭和50)年に日本将棋連盟によって制定された背景には、江戸時代の中頃から行われていた歴史的な年中行事「御城将棋(おしろしょうぎ)」が存在します。
江戸幕府の第8代将軍・徳川吉宗の時代である1716年(享保元年)、将軍の御前でトップ棋士たちが競い合う「御城将棋」が、年に一度の行事として旧暦の11月17日に定例化されました。当時の棋士たちにとって、この対局は名誉をかけた命がけの舞台であり、最高の晴れ舞台でした。この歴史にちなみ、現代においても普及と文化の継承を目的としてこの日が「将棋の日」として親しまれるようになったのです。
すべての始まりは古代インド!日本への伝来
ルーツをたどると、はるか古代のインドに行き着きます。古代インドで生まれたボードゲーム「チャトランガ」が、紀元前後のシルクロードを経て、中国や東南アジアへと伝播しました。これがヨーロッパに渡ると「チェス」になり、アジアに渡ると中国の「象棋(シャンチー)」や、韓国の「チャンギ」へと姿を変えていきました。
日本に伝わったのは、奈良時代から平安時代頃だといわれています。当時の貴族たちの間では「平安将棋」などが遊ばれており、京都の興福寺跡などからは、平安時代初期の最古級の木製駒が出土しています。大陸から伝わったボードゲームは、日本の文化や風土に溶け込みながら、独自の変容を遂げていくことになります。
日本独自の進化:「持ち駒」ルールと江戸の家元制度
インドから世界各地に散らばったボードゲームの中で、日本の将棋が世界的に見ても極めてユニークな進化を遂げた理由は、「持ち駒のルール」にあります。
チェスなどでは、一度相手の駒を取ったらゲームから除外されますが、日本の将棋では「取った駒を自分の味方として盤上に再利用できる」という画期的なルールが生まれました。これにより、終盤戦であっても選択肢が無限に広がり、形勢が逆転するゲーム性が確立されたのです。
さらに、江戸時代に入ると、徳川家康の庇護のもとで幕府公認の技芸となり、制度化が進みました。大橋家や伊藤家といった「家元」制度が誕生し、日本一の称号である「名人」の位が重んじられるようになります。公認のプロ棋士たちがしのぎを削る、近代的なプロ制度の土壌がこの時代に築かれたのです。
近代から現代へ:新聞棋戦の創設からAI時代の到来
明治維新を迎えると、江戸幕府の庇護を失った将棋界は一時衰退の危機に直面します。しかし、棋士たちの努力や、新聞の紙面に「新聞棋戦(棋譜解説)」が掲載されるようになったことをきっかけに、大衆文化として復活を遂げました。
昭和に入ると日本将棋連盟が設立され、「名人戦」をはじめとする数々のビッグタイトルが次々と創設されます。戦後の高度経済成長期を経て、テレビ中継やインターネット配信が普及すると、プロ棋士の戦いはお茶の間に広まっていきました。
そして現代では、人工知能の急激な台頭により、AIを活用した研究が当たり前となった今、新たな手の研究は大きく進み、大きな盛り上がりと新たな黄金期を迎えています。
職人たちの技が息づく伝統工芸
将棋の魅力は、盤上の戦いだけにとどまりません。対局を彩る「駒」や「盤」といった道具そのものにも、日本の優れた職人技と歴史が宿っています。
中でも全国的に有名な駒の生産地として知られるのが、山形県天童市です。江戸時代末期、窮乏した藩の財政を立て直すため、下級武士の内職として駒作りが奨励されたことがそのルーツとされています。木を丁寧に切り出し、一文字ずつ文字を彫り、漆を流し込んで仕上げる「彫り駒」や「彫り埋め駒」などの高度な技法は、職人たちによって脈々と受け継がれてきました。
終わりに
古代インドから脈々と受け継がれ、日本で独自の発展を遂げてきた歴史を確認する特別な一日です。
歴史の重みを感じながら、一局指してみたり、プロの熱戦を観戦したりして、奥深い将棋の世界に浸ってみてはいかがでしょうか。


