
復員兵たちの戦後再起
10/12(日)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/09/26
1945年の秋、敗戦の影が色濃く漂う教室には、静寂とインクの匂い、そして拭い去れない戸惑いが満ちていました。昨日までの信念が木っ端微塵に砕け散った若い教師は、生徒たちの前に立ち、そのか細い声で、苦渋の命令をしました。
「これまで学んできた教科書を取り出しなさい。そして、私が指示した箇所を、墨で塗りつぶすのです」。
生徒の一人が「なぜ?」と尋ねると、教師から返ってきたのは至って単純な真実でした。
「戦争に負けたということは、こういうことです」――と。
そうして、生徒たちは筆を手にとり、日本の赫々(かくかく)たる戦果を謳った記述や、「バンザイ」といった言葉、そして彼らが拠って立つ世界の土台そのものを、覆い隠していきました。この強烈な光景は、トップダウンで注入されたイデオロギーを解体するプロセスが、いかに痛みを伴うものであるかを物語っています。
かつて我が国には、神の言葉にも等しい絶対的な「命令書」が存在しました。「教育ニ関スル勅語」、通称「教育勅語」です。それは、単なる歴史的文書ではなく、組織の隅々にまで浸透し、個人の思考を規定する、究極のトップダウン指令でした。
はじめに、「親に孝養をつくしましょう(孝行)」「兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)」「友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友ノ信)」といった、誰もが受け入れられる普遍的な徳目を並べられ、これにより、人々は自発的にこのイデオロギーを受け入れ、それを善なるものと信じ込みます。
しかし、その核心には決定的な転換点が用意されていました。これら全ての美徳は、最終的に一つの絶対的な目的へと収斂(しゅうれん)されます。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(ひとたび国家に危機が迫ったならば、正義と勇気をもって公のために身を捧げ、永遠に続く皇室の運命を助けなさい)」。戦時中の教科書では、この解釈はさらに直接的になり、「君国(くんこく)のためにつくさなければなりません」と教えられました。
このような、平易な教えから軍国主義としての美徳へと転換する構造には、個人の善意や美徳を国家目的のために「武器化」するという巧みさがありました。なぜなら、普遍的な徳目を否定することは、親不孝で、人でなしであると自認するに等しく、そのため、国家への奉仕という最終目的に疑問を差し挟むことは、心理的に極めて困難になるからです。軍の命令に背くことは、単なる規律違反ではなく、家族や祖先への裏切り行為とされたのです。当時の教育現場で行われていたのは、この勅語の精神を組織の末端まで浸透させるための「修身」の授業でした。修身の教科書は、楠木正成(くすのき まさしげ)や二宮尊徳といった歴史上の偉人伝を通じて、自己犠牲と忠誠の精神を情緒的に訴えかけ、具体的な行動モデルとして提供しました。
この戦前の教育システムは、現代の硬直化したトップダウン型組織の姿と重なります。勅語はカリスマ経営者の絶対的なビジョンであり、修身は入社時研修とカルチャーブック、そして日々の訓練は厳格なKPI管理と標準化された業務プロセスに当てはまります。それは悪い面ばかりではなく、迅速な意思決定、組織全体の一貫性、そして統一された目的意識という、強力なメリットを内包しています。しかしその裏には、自ら考える力を失い、上からの指示を待つだけの「指示待ち人間」を量産するという、深刻な弊害も潜んでいるのです。もしリーダーが道を誤れば、組織全体が続けざまに崖を転落することになるのです。これこそが、多くの大企業を蝕む官僚主義や、「大企業病」の病理と言えるのではないでしょうか。
8月15日に戦争が終わり、GHQによる指令が発せられ、旧体制は公式に解体されました。しかし、人びとの内面的な変化は、瞬時には起こりませんでした。当時の人びとは、「何を」考えるべきかを徹底的に教え込まれていましたが、「どのように」考えるべきかは、教えられていなかったのです。その「何を」が奪われた時、思考の空白が生まれ、旧来の価値観は信用できず、新しい価値観はまだ内面化されていない。この宙吊りの状態で、人々は過去の習慣に縛られ、あるいは未来への希望を失い、深い無力感に苛まれました。これこそが、「思考停止」を強いたシステムが支払わされる、最も高く、そして最も長く続く代償なのです。
この灰燼(かいじん)の中から、個人の「自律」を社会の礎に据えるという、壮大な社会実験が行われました。その象徴が、天皇から与えられた「教育勅語」から、国民自らが定めた「教育基本法」への転換です。教育の目的は、国家に尽くす忠良な歯車を育成することから、心身ともに健康で自律した市民を育むことへと、180度転換され、教室の風景を一変させました。絶対的な道徳規範を暗記させた「修身」は廃止され、代わりに、社会の仕組みや課題について自ら考え議論する「社会科」が導入されました。そして、教室は民主主義を「教わる」場所から、民主主義を「実践する」場所へと変わり、生徒たちは、学級会やクラブ活動、学校新聞の発行といった自治活動を通じて、主体的にコミュニティを運営することを学びました。これらはすべて、知識の注入ではなく、自ら考え、判断し、行動する能力を育むための試みでした。
この歴史が示す教訓は、現代を生きるリーダーへの一つの選択肢です。私たちは自らの組織を、絶対的な「勅語」の上に築くのか、それとも個の力を信じる「基本法」を礎とするのか。服従を命令するのか、それとも人格を育むのか。
その選択を体現した、一人の経営者がいます。日本ではじめて郵便以外の物流インフラを創設したヤマト運輸の創業者、小倉昌男(おぐら まさお)です。彼が「宅急便」という革命的なサービスを構想した時、その前には巨大な官僚組織、すなわち運輸省が立ちはだかりました。当時の小口貨物輸送は郵便小包の独占市場であり、民間企業が参入するための事業免許は、既得権益を守ろうとする官僚機構によって固く閉ざされていました。多くの経営者が政治力を駆使して許認可を得ようとする中、小倉は全く異なる道を選びます。
彼は、官僚という究極のトップダウン権力に対し、正面から異を唱え、行政訴訟という手段に打って出ました。その行動を支えたのは、「サービスが先、利益は後」という、顧客という現場(ボトム)のニーズを絶対視する揺るぎない信念でした。彼は、官僚の顔色を窺(うかが)うのではなく、顧客の声なき声に耳を傾けた。そして、その信念を実現するために、彼は顧客と直接向き合うある一人の社員を、最前線のプロフェッショナルとして信頼し、大きな権限を与えました。小倉は、「勅語」ではなく「基本法」の道を選んだリーダーだったのです。
組織も国家も、管理の完成度によってではなく、人間の潜在能力の解放によってこそ繁栄します。自律への道は、信頼と忍耐、そして失敗への寛容を要求する、困難な道です。しかし、それこそが、揺るぎない強さと真のイノベーション、そして未来へと受け継がれるべきレガシーを築く、唯一の道なのです。
この歴史的な経緯を通じて、私たちは組織や社会における価値観の形成と変容について深く考えることが求められます。トップダウンでの価値観の押し付けが、いかに個人の思考や行動を制限し、時には歪めることがあるか、そして、価値観の多様性と自由な思考がいかに重要であるかを、歴史は教えています。価値観の形成における教育の役割と、その影響力の大きさを示しています。そして、それは現代の組織や社会においても、変わらぬ真理として受け継がれています。価値観の形成は、単に過去を反映するだけでなく、未来を創造するプロセスでもあるのです。
写真提供:昭和館
復員兵たちの戦後再起