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70年の時を超えて繋がる航跡ーー日章丸事件という伝説
ビジョナリー編集部 2026/05/02
ペルシャ湾とインド洋を結ぶ海上の要衝、ホルムズ海峡。世界の原油輸送の命綱とも言えるこの場所で、イラン側が海峡封鎖を宣言し、世界中に緊張が走りました。各国の船舶が足止めされる中、出光興産の超大型タンカー「出光丸」は、約200万バレルの原油を積み、日本を目指して動き出しました。
なぜ、数ある船舶の中で出光丸が通過を許されたのか。そこには1953年の「日章丸事件」から続く、両国の特別な絆がありました。
巨大資本の独占に挑んだ「極秘交渉」
敗戦直後の日本は、 街に焼け跡が広がり、産業も暮らしも再建の糸口が見えない状況にありました。その復興に不可欠なエネルギー源が石油でしたが、当時の市場は欧米の巨大資本「石油メジャー」に牛耳られていました。特にイギリスのアングロ・イラニアン・オイル・カンパニー(現BP)はイランの資源を独占し、現地に利益をほとんど還元しない不平等な構造を強いていたのです。
1951年、イランが石油国有化を宣言すると、反発したイギリスは海軍を派遣。「イランから石油を買う船は撃沈も辞さない」と世界を脅かしました。この緊迫した状況下で、出光興産は動きます。イラン側も当初は無名の中小企業に不信感を抱きましたが、出光佐三の弟・計助を現地に送り、粘り強い交渉の末に合意を取り付けました。航路の偽装や第三国経由の交渉など、準備は徹底して極秘裏に進められたのです。
海上封鎖突破と、法廷での勝利
1953年3月23日、満を持してタンカー「日章丸」が神戸港を密かに出港します。4月10日にアーバーダーン港へ到着すると、世界中のメディアが「日本の民間タンカーが英海軍の封鎖を突破した」と一斉に報じました。
ガソリンと軽油を満載した日章丸は、英軍の監視や機雷をかわしながら、ついに5月9日、川崎港に無事到着します。これは国際秩序への挑戦であり、戦後日本の独自の道を象徴する出来事となりました。
当然、イギリス側は訴訟や外交的圧力で応戦しました。しかし、イギリスの独占に反発したアメリカの黙認もあり、日本の裁判所は「石油の買い入れは正当な商取引である」としてイギリス側の訴えを却下。この勝利は、世界の石油自由貿易のきっかけとなり、日本経済復興の大きな一歩を刻むことになりました。
「黄金の奴隷になるな」出光佐三の哲学
この歴史的な決断を下したのが、出光興産の創業者・出光佐三です。 福岡の小さな石油商店からスタートした彼は、名門校(現・神戸大学)を卒業しながらも現場で泥臭く働き、将来の日本にとって石油が不可欠な資源になると確信していました。
出光は「黄金の奴隷になるな」と説きました。金儲けや組織の論理に縛られず、人間として独立し、社会や国民の幸福のために尽くすことを重視したのです。その哲学は組織のあり方にも表れ、社員を信じ、家族のように支え合う「大家族主義」を徹底しました。
また、彼は「自分に薄く、その余力で人のために尽くせ」という信念を生涯実践し続けました。生まれ故郷の宗像大社の再建や教育施設への寄贈など、文化・教育分野にも大きな足跡を残しましたが、自らの功績を誇ることなく、記念碑に名を残すことすら拒みました。日章丸の派遣という勇気ある行動も、この一貫した“利他”の精神から生まれたものでした。
70年の時を超えて繋がる航跡
現代の「出光丸」がホルムズ海峡を通過できたのは、かつての佐三が示した誠実さが、数十年の時を超えて報われた瞬間でもありました。
イラン側が出光のタンカーを選び、過去の友情を強調したことは、日本との特別な信頼関係を世界に示すメッセージでもあります。専門家によれば、これは「善意は善意によって報われる」という国際社会へのアピールであり、不安定な情勢下での「信頼の外交」の一助となっています。
もちろん、中東情勢は依然として厳しく、リスクが消えたわけではありません。しかし、かつて「無理」と言われた挑戦を成し遂げた先人の胆力を思い起こすことで、新たな道が拓けるのかもしれません。


