
『特攻』に学ぶ「覚悟」と「生き抜く力」
10/10(金)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/09/17
太平洋戦争の末期、1945年に繰り広げられた沖縄戦は、その凄まじさから『鉄の暴風』とも呼ばれ、沖縄に住む人々の人口の約4分の1を失い、街は完全に破壊され、那覇市に至っては90%が焼失したと記録されています。
この凄惨な戦いは、事前に日本軍もほぼ勝利は不可能だと認識していたにもかかわらず、今さら誰も「戦えない」などと提言できないことから、本土決戦までの時間稼ぎという名目で、沖縄での徹底抗戦を決定したことから始まりました。
最初から分かっていた負け戦で、日に日に戦力を消耗していく沖縄の日本軍は、兵器や食料が不足すると、住民から食料や避難壕を強奪したり、彼らを弾薬運搬などの危険な任務に動員したりしました。そして、さらに戦局が悪化すると、10代の年端もいかない子供たちが「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり学徒隊」として、法律上の根拠がないまま戦場に送り込まれていきました。特に14歳~19歳の男児は「鉄血勤皇隊」として軍の正規兵を支援するため、軍事物資の運搬、爆撃で破壊された橋の補修、伝令や通信、そして切断された電話線の修復などにあたりました。中にはより過激な任務として、木箱に爆薬を詰めた「急造爆雷」を背負い、戦車に体当たりして爆破する「斬り込み攻撃」が命じられることもありました。このような非人道的な命令は、個々の命を軽んじ、組織の都合を最優先した結果の産物です。
本来であれば住民を守る立場であるはずの日本軍が、その役割を放棄していましたが、軍内部の論理や物資確保を優先する不正な状況を、誰も正そうとしませんでした。もし誰かが異議を唱えれば、組織内の秩序を乱し、「非国民」と見なされるリスクがあったため、黙ることが「合理的」だと判断されてしまったのです。
そんな行き場のない戦いの中でも、当時の沖縄の人々は、日々の生活をどうにかして生き抜く知恵と強さを見出しました。沖縄に古くから伝わる「命(ぬち)どぅ宝」(命こそ宝)という哲学をもって、戦争の只中で、自らの命の尊さを再認識した人々が互いに支え合い、共同体の絆を強化しました。この哲学は、「生き延びるために互いを助け合う」という強い意志を生み出し、食料が不足している中でも、隠していた食料を分け合ったり、避難壕を共有したりすることで、多くの命が救われました。
また戦時中だけでなく、戦後の復興期においても、「命どぅ宝」の精神は沖縄社会の復興と再生の基盤となりました。1945年の那覇は、まさに焦土と化していましたが、その瓦礫の中から、驚くべき速さで街は立ち上がっていきます。その象徴が「奇跡の一マイル」と呼ばれる国際通りです。この通りは、戦前は墓地と芋畑が広がる湿地帯に開通した「新県道」に過ぎませんでしたが、戦後、一人の元映画館経営者、高良一(たからはじめ)の行動が、復興の火付け役となりました。
彼は、「同胞を慰めるため」に映画館を再建したいと米軍に申し出、1948年に「アーニー・パイル国際劇場」をオープンさせます。娯楽に飢えていた県民は、この映画館に殺到し、連日満席が続きました。このたった一つの、人間的な目的を持った事業が、瓦礫の街に活気を取り戻す触媒となりました。劇場を中心に店が増え、活気が生まれたこの通りは、後に訪れたアメリカの新聞記者がその驚異的な復興を「奇跡の一マイル」と表現しました。通りの名前も、この映画館にちなんで「国際通り」と名付けられたのです。
この復興は、国家や軍が主導したものではありませんでした。それは、一人の起業家や、自発的に闇市を形成した住民たちの、ボトムアップの力によって成し遂げられたのです。彼らは、かつて命を奪った組織の論理とは異なる、人間中心の価値観で行動しました。そこではまず、人々の基本的な生活(食糧、住居、そして心の安らぎ)を満たすことが最優先されたのです。人々は、失われた家族や財産を悼みながらも、生きる力と希望を見出し、共に未来を築いていきました。
沖縄戦からは、組織や社会が直面する不条理を超えるための重要な教訓が得られます。リーダーは、組織内の空気に対して常に警戒し、開かれたコミュニケーションを促進することが求められます。また、困難な状況下でも、人間の尊厳と共同体の絆を最優先に考え、ボトムアップのアプローチを取り入れることの重要性が示されています。沖縄戦の経験は、現代のリーダーにとって、単に過去の出来事を学ぶだけではなく、未来を生き抜くための知恵と勇気を与えてくれます。組織や社会が直面する課題に対して、人間の尊厳を守り、共同体の力を信じること――。それこそが私たちがこの沖縄戦の物語から学ぶべき、最も価値ある教訓なのではないでしょうか。
写真提供:ひめゆり平和祈念資料館