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#30すべてのご縁に育てられて
三木 明博 2025/10/30
今となっては不思議なご縁ですが、私が「八木原会」という集まりに関わるようになったのは、赤坂にある一軒のバーがきっかけでした。赤坂のコロンビア通りにある、看板も小さな、目立たない店です。そこは、私の知り合いである弁護士の弟さんがやっているバーで、彼らの趣味で集めた音楽を静かに流している、いわば大人の隠れ家でした。
私もその弁護士の先生に「弟が店をやっているから行ってあげてよ」と頼まれて時々通うようになり、その静かな雰囲気を気に入っていました。ある時、私がカウンターに座っていると、隣に一組の男女が座っていました。
それが、八木原会のメンバーであるTさん(女性です)と、Nさんという方との最初の出会いでした。私たちは全くの初対面でしたが、Tさんが非常によく喋る方でしたので、話が弾んでいったのです。Nさんは、元々セコムのグループ会社で社長をされ、当時は茨城の企業にいらっしゃるとのこと。全く異なる業界の話で盛り上がりました。
その別れ際に、お二人から「今度、八木原さんという面白い人がやっている集まりがあるから、三木さんも来ませんか」と誘われたのです。「どういう方ですか?」と尋ねると、「ファッション関係の人で、すごく面白い方なんだ」と。私は面白い人が好きですから、「ぜひ」とお受けしました。それが、もう7、8年、あるいは10年ほど前のことでしょうか。全くの偶然の出会いから、ご縁が始まったのです。
八木原さんも、畑違いの私に興味を持ってくださったのかもしれません。しばらくして、Nさんから「八木原さんが『グッドエイジャー賞』という、素敵に歳を重ねた人を表彰する制度をやっています。ついては三木さんに、実業界の分野から受賞してほしい」というお話をいただきました。当時、私は60代後半だったと思います。
「表彰を受けるような人生は送っていませんよ」と固辞したのですが、「経営者でこれだけの実績を積んだ人はいない」と強く勧められ、ありがたくお受けすることにしました。その年は、俳優の西岡德馬さん、歌手の八代亜紀さんとご一緒でした。
先日も、八木原さんの会社の60周年記念パーティーに「来てもらえないか」と呼ばれました。私は別の予定が入っていたのでお断りしようとしたのですが、そのパーティーには歌手の川中美幸さんも参加されるとの事でしたが、「川中さんが知っている人が誰もいないからさみしがっているから『三木ちゃん呼んだよ』と伝えてありますから」と。
まいったな、と思いながら、挨拶だけで帰ろうと思い顔を出すと、案内された席は、川中さんの隣の真正面。当然、抜け出すことなどできず、挙げ句の果てには、最後の挨拶までさせられる始末です。しかし不思議と、あの人に頼まれると、どうにも断れないのです。
こういうことは他にもあります。川崎の有名なお寺の住職からも、年に一度の檀家さんの集まりに呼ぶ歌手を、毎年「今年はこの方を呼んでくれませんか」と頼まれています。その住職は今や90歳ですが、88歳の米寿の時には、ご自分で作詞し、有名な作曲家の杉本眞人さんに作曲を依頼して『人生これから』という歌までリリースされました。毎日読経されているだけあって、声の張りがすごい。
八木原さんも、その住職も、私より年上の方々です。そんな方々が困っているのであれば、少しでもお力になれればと思う。ただ、それだけなのです。私自身、八木原さんに助けていただいたこともありますし、お互い様。すべては、あの赤坂のバーから始まった「ご縁」なのです。
少し前になりますが、俳優の佐藤B作(本名:佐藤俊夫)くんが、ある雑誌のインタビューで「もし戻れるとしたら、いつの時代に戻りたいですか?」という質問に「夢中になっていた大学の劇団「こだま」をやっていた、あの時代に戻りたい」と答えているのを読んで、「同じだ」と思いました。私も何も持ってなかったけど、時間と夢だけはあり余るほど持っていたあの時代に戻れるなら戻りたい! と、今も思っています。
「俊夫、久し振りに一杯やろうか」


