文化放送入社――世紀の大スクープ 後編
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#05文化放送入社――世紀の大スクープ 前編
三木 明博 2025/10/05
入社後、最終面接にいた役員の方にお会いする機会がありました。
「私のことを覚えていらっしゃいますか」と尋ねると、「もちろん覚えているよ。君を入れたのは、この俺なんだ」とおっしゃるのです。他の役員は「なんだ、あの変なやつは」と私の入社を反対したそうですが、その方だけが「これからの組織には、ああいう変わったやつが必要だ。まともな人間ばかりではダメになる。ああいう男が何か面白いことをやるかもしれない」と、強く推してくださったのだと聞きました。
無事に入社できたのは良かったのですが、配属先には頭を悩ませることになります。当時は営業から制作、報道まで、各部署を回る研修がありました。しかし、私は報道に全く興味がありませんでした。ニュースがやりたいなら、そもそも放送局ではなく新聞社を受けています。全く興味がなかったので、「大学の用事が…」などと理由をつけては、報道の研修をサボっていました。すると、どういうわけか、その一番行きたくなかった報道部に配属されてしまったのです。「ええっ!」と、思わず声が出ました。ドラマを作りたくて入社したのに、なぜ、と。
報道部の仕事は、朝出社するところから始まります。デスクに横一列に並び、まずは鉛筆を削る。そして、通信社から送られてくる原稿を元に、アナウンサーが読むためのラジオ用原稿を作成するのが主な業務でした。一行あたりの文字数が決まっている原稿用紙に、それをひたすらまとめる地味な作業の繰り返しです。
そんなある日、上司から「数寄屋橋でこういうキャンペーンをやるから、誰か行ってこい」という指示がありました。誰も行きたがらないので、私が「じゃんけんで負けた人が行くというのはどうだ」と提案し、それで決めることにしました。ところが、その様子を見ていたデスクから、「なんだそれは! なぜ勝った者ではなく、負けた者が行くんだ!」と、烈火のごとく叱られました。こんな風に、私は部署の中ではいつも異端児というか、劣等生のような存在だったのです。
そんな鬱屈した日々を送っていた1970年11月25日。歴史的な事件が起こります。
その日、私は数人の同僚と局に残り、昼のニュース原稿を書き終えたところでした。一本の電話が鳴り、デスクが応対した後、私たちにこう命じました。「今、市ヶ谷の自衛隊駐屯地に誰か乱入したらしい。お前とS(先輩)の二人で行ってこい」。
私は先輩と共に、現場へ急ぎ向かったのです。
―第6回へつづく―


