三島事件に遭遇して感じた「運の強さ」
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#06文化放送入社――世紀の大スクープ 後編
三木 明博 2025/10/06
1970年11月25日、私は上司から命じられ、先輩とともに市ヶ谷の自衛隊駐屯地へと向かいました。
当時は学生運動も盛んでしたから、またどこかの過激派か何かが騒ぎを起こしたのだろう、くらいにしか考えていませんでした。私たちはデンスケ(録音機)を担いで車に乗り込みました。社旗を立てた車で駐屯地に着くと、自衛官が敬礼をしてくれます。「誰か乱入したと聞いたのですが」と尋ねても、「いえ、何もありませんよ」との返事。確かに、中庭は静まり返っていました。
一緒に行ったSさんが「これでは取材にならない。手分けしよう」と言い、建物の中へ入っていきました。広場に残された私は、途方に暮れていました。その時です。正面玄関から出てきた数人の自衛官に話を聞こうと近づいた瞬間、頭上にあるバルコニーから、マイクを通さない生の声が降ってきたのです。
反射的にデンスケのマイクを向け、録音のスイッチを入れました。バルコニーは高く、誰が話しているのか判別できません。しかし、とにかく私はその声を録り続けました。やがて、日の丸の鉢巻をした人物が、作家・三島由紀夫その人だとわかり、彼の演説が始まったのです。
しかし、その内容は私にとって理解しがたいものでした。私的防衛組織「楯の会」を作り、自衛隊にはシンパシーを抱いているはずの三島氏が、なぜ自衛官たちを前にして彼らを批判するような演説をしているのか。全く意味が分かりませんでした。
「お前たちは自分の存在を否定するものを、なぜ破るために立ち上がらないんだ!」 「お前たちは憲法違反だと言われているのに、なぜ立ち上がらないんだ!」
三島氏の檄が飛ぶと、最初は戸惑っていた自衛官たちの間にも動揺が広がり、やがて怒号と歓声が入り乱れ始めました。上空にはヘリコプターが飛び交い、他のマスコミも続々と集まってきます。三島氏は最後に檄文のビラを宙に撒き、バルコニーから姿を消しました。
まさかあの直後に、彼が割腹自決するなどとは夢にも思いませんでした。その一報を聞いた時、初めて事の重大さを理解し、全身に鳥肌が立ったのを覚えています。
歴史に残るクーデター、三島事件。この衝撃の瞬間を収めたのは、文化放送だけであり、一大スクープとなりました。実は、この世紀のスクープで私が唯一褒められたのは、ほんの些細なことでした。当時の録音媒体はオープンリールのテープです。私は、三島が撒いたビラを一枚拾い、演説の重要だと思った箇所を、目印としてテープの間に挟み込んでおいたのです。これが編集作業で大いに役立ち、「新人にしては、よく機転が利いたな」と、デスクから初めて褒められたのを、今でも覚えています。


