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2025

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    国宝と呼ばれた男――六代目中村歌右衛門、その波乱と栄光の生涯

    国宝と呼ばれた男――六代目中村歌右衛門、その波乱と栄光の生涯

    「謙虚さをなくしたら芸はダメ」

    「万菊」が映画『国宝』の中でまとうあの圧倒的な存在感。そのモデルと目される人物こそ、昭和・平成の歌舞伎界に君臨した六代目中村歌右衛門です。女形の神様と呼ばれ、数々の伝説を生み出した彼の人生は、想像をはるかに超えるドラマに満ちていました。いったい、どのようにして“国宝”と称される存在に至ったのか――。時代の波を乗り越えた彼の半生を紐解いていきます。

    幼少期――名門に生まれ、宿命を背負う

    1917年、大正時代の東京。歌舞伎界の名門・成駒屋に、後の六代目中村歌右衛門は生を受けました。父は五代目中村歌右衛門、母の実家である河村家に幼くして養子に入り、河村藤雄と名付けられます。家柄に恵まれ、何不自由ない幼少期に見えましたが、実は先天的な左足脱臼という大きなハンディキャップを抱えていました。長い闘病と手術の末、ようやく歩けるようになりましたが、その足のぎこちなさは生涯続くことになります。

    初舞台――華やかなデビューと突然の転機

    1922年、まだ5歳の秋、東京新富座の『真田三代記』で三代目中村児太郎として初舞台を踏みます。歌舞伎界のサラブレッドとして、周囲の期待は高まっていきました。しかし、順風満帆な日々は長く続きません。

    1933年、歌右衛門16歳のとき、兄である五代目中村福助が急逝します。名家の後継ぎという重圧が一気にのしかかり、同年11月には父の意向で歌舞伎座『絵本太功記・十段目』の初菊で六代目中村福助を襲名。若くして成駒屋を背負う運命に立たされることとなったのです。

    孤独と挑戦――父の死、そして修業の日々

    運命の波はさらに激しくなります。1940年、父・五代目歌右衛門が死去。歌舞伎界の孤児となった若き福助のもとには、昨日までの賑わいが嘘のように人が寄り付かなくなりました。同時期、六代目尾上菊五郎が絶頂期を迎えており、周囲の人々が次々と菊五郎のもとへなびく中で、彼は孤立無援の状況に置かれます。

    それでも、彼はあきらめませんでした。翌年、六代目中村芝翫(しかん)を襲名し、初代中村吉右衛門の劇団に身を寄せます。ここでの修業が、後の彼の芸を飛躍的に高めることになります。義太夫狂言を中心に、三代目中村梅玉や二代目實川延若らの薫陶を受け、古典の様式美に近代的な心理描写を取り入れるという独自の表現を磨き上げていきました。

    輝く美貌と芸の深化――“歌右衛門伝説”の誕生

    この時代、彼の美貌は歌舞伎界でもひときわ輝きを放ちます。若い女形の中では三代目尾上菊之助と並び称され、観客を魅了してやみませんでした。しかし、それだけではありません。役柄に対する深い解釈と、古典に現代的な息吹を吹き込む表現力が、次第に「伝説」と呼ばれる舞台を生み出していきます。

    1948年、文部省芸術祭文部大臣賞を受賞。1951年には、歌舞伎座『妹背山女庭訓』のお三輪、『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子、『祇園祭礼信仰記』の雪姫で、ついに六代目中村歌右衛門を襲名します。この時、口上には吉右衛門が後見を務め、金屏風の前で新たな時代の幕開けを高らかに宣言しました。

    女形の頂点へ――新たな芸の地平を切り拓く

    戦後の歌舞伎界はまさに歌右衛門の時代でした。三姫(八重垣姫・時姫・雪姫)や政岡、戸無瀬といった大役を次々に務め、『加賀見山旧錦絵』の尾上、『籠釣瓶花街酔醒』の八ツ橋、『道成寺』の白拍子花子など、数々の当たり役を生み出します。父・五代目から受け継いだ芸の型だけでなく、時代の空気や観客の心を敏感に捉え、伝統と革新の両輪で女形芸を体現しました。

    この信念のもと、技芸への飽くなき追求と自己への厳しさを貫きました。その舞台は、しなやかな美しさと深い情念、そして時に妖気すら感じさせる迫力で観客を圧倒していました。とくに『加賀見山旧錦絵』の尾上で長廊下を無言で歩む場面は、会場全体を静寂と緊張で包み込む「一代の芸」と称されます。

    新たな挑戦と社会貢献――“莟会”と国際交流

    吉右衛門亡き後の1954年、自主勉強会「莟会(つぼみかい)」を発足。ここでは新作や復活狂言に意欲的に挑み、三島由紀夫による『熊野』『芙蓉露大内実記』や北條秀司による『建礼門院』『春日局』など、時代を映す女性像を現代に蘇らせました。歌右衛門が演じるヒロインたちには、古典の枠を超えたリアリティと哀しみ、そして母性が色濃く表現され、多くの観客の心を捉えました。

    また、国際的な歌舞伎の発信にも尽力。1960年のアメリカ本土公演を皮切りに、ソ連、ハワイ、カナダ、イギリス、ドイツ、フランス、オーストラリアなど世界各地で舞台を披露しました。1975年にはエリザベス女王の前で公演を行い、日本の伝統芸能を世界へと広める先駆者となりました。

    晩年――伝統の守り手として、次世代へ

    1980年代後半になると、長年酷使した足の衰えが顕著になり、舞台の数も徐々に減っていきます。それでもなお、「一世一代」と銘打った興行で大役を丁寧に務め、惜しまれながらも一つひとつの役に別れを告げていきました。

    平成に入ると、舞台監修や後進の指導に精力を注ぎます。四代目中村雀右衛門、五代目坂東玉三郎、九代目中村福助らを熱心に育て、古典の演出や心の在り方まで細やかに伝えました。芸術監督という責任の重い立場も担い、歌舞伎全体の未来を見据えた活動を続けました。

    栄誉と人間性――“国宝”と呼ばれる理由

    六代目中村歌右衛門は、その芸だけでなく人間としても多くの人々から敬愛されてきました。史上最年少で日本芸術院会員となり、人間国宝、文化勲章、数々の演劇賞に輝きました。日本俳優協会や伝統歌舞伎保存会の会長としても長年尽力し、歌舞伎界の発展に多大な貢献を果たしました。

    舞台の厳しさと裏腹に、日常では非常に丁寧な言葉遣いと柔らかな物腰が印象的でした。些細な場面でも相手を思いやる気配りを忘れず、誰に対しても誠実に接したと言われています。一方で、決して流されず、自分の信念を貫く強さも兼ね備えていました。

    例えば、車の誘導係のアルバイトにも丁寧に接したエピソードが伝わっています。予定の時間より30分前に歌右衛門が会場に入っていたことに気づかなかったアルバイトが、慌てて挨拶に行った時に、演劇界の重鎮と話していた歌右衛門が話を中断してまで、立ち上がり頭を下げました。逆に30分前に会場入りしてしまいご迷惑をおかけしたと丁寧に謝ったそうです。

    また、三島由紀夫や長谷川一夫、市川右太衛門など、時代を代表する文化人との交流も多く、互いに芸を高め合う良きライバル・親友として刺激を受け続けました。三島由紀夫は歌右衛門のために新作歌舞伎を書き下ろし、絶賛の言葉を惜しまなかったことは有名です。

    最期まで“女形”として――伝説は生き続ける

    1996年、最後の舞台を終え、療養生活に入ります。その後も、歌舞伎の監修や指導を通じて後進に情熱を注ぎました。そして2001年、桜と雪と月――まさに当たり役の「墨染」に象徴される美しい季節に、84歳でその生涯を閉じました。

    映画『国宝』の万菊に彼の面影を重ねたとき、なぜその存在が“国宝”と呼ばれたのか、その理由が鮮やかに浮かび上がります。伝統を守り抜き、時代の変化と共鳴し、比類なき美と心を舞台に刻んだ六代目中村歌右衛門。その半生は、今もなお歌舞伎という芸能に深い影響を与え続けています。

    まとめ――“国宝”に込められた意味

    六代目中村歌右衛門は、名門に生まれながらも、幾多の困難や孤独、そして時代の波にさらされながら、誰よりも強く舞台と向き合い続けました。その芸と人格は、昭和・平成の歌舞伎界にとってまさに“国宝”と呼ぶにふさわしいものでした。

    今一度、彼の生き方や芸の本質に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。きっとそこには、時代を超えて受け継がれる「美」と「心」の物語が、静かに息づいているはずです。

    #歌舞伎#伝統芸能#日本文化#国宝#映画国宝#中村歌右衛門

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