銃を手に時代を切り拓いた女性──新島八重の生涯
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薩摩から徳川へ――天璋院篤姫、変化の時代を生き抜いた女性の軌跡
ビジョナリー編集部 2025/10/28
「篤姫」と聞いて、あなたはどんな人物像を思い浮かべるでしょうか?ドラマや小説で描かれる気丈な女性、あるいは幕末という動乱の渦中で徳川家を守り抜いた“もう一人の主役”——。天璋院篤姫の生涯を紐解くと、強い覚悟が浮かび上がってきます。
薩摩の姫から徳川家へ 運命を切り拓く選択
篤姫、後の天璋院は1835年、薩摩藩主・島津氏の一門である今和泉家に生まれました。時代は幕末、全国で飢饉や騒動が続き、江戸幕府の権威に翳りが見え始めていた不安定な時期。そんな中、将軍家では跡継ぎ問題が深刻化し、篤姫の人生は大きく動き出します。
当時の将軍・徳川家定は病弱で、先に迎えた二人の正室も相次いで病没していました。幕府は「健康で世継ぎを産める女性」を求め、目をつけたのが篤姫だったのです。しかし、将軍家の正室は原則として公家や皇族から迎えるのが慣例。そこで篤姫は、まず薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、さらに五摂家筆頭・近衛家の養女へと“格”を上げ、ようやく徳川家への輿入れが実現します。
大奥で直面した現実と、政治の荒波
篤姫が22歳で徳川家定の正室として大奥に入ったのは1856年のこと。しかし、華やかなイメージとは裏腹に、そこには複雑な人間関係や、将軍継承をめぐる熾烈な派閥争いが渦巻いていました。
家定との夫婦生活はわずか2年足らず。子を授かることもなく、家定は若くしてこの世を去ります。篤姫は24歳で落飾し、「天璋院」と名乗ることになります。ここから彼女の“真の戦い”が始まります。
幕府の将軍継承問題では、水戸家出身の一橋慶喜(後の徳川慶喜)か、紀州家出身の徳川慶福(後の徳川家茂)か、激しい派閥争いがありました。彼女の養父・島津斉彬は慶喜推しでしたが、大奥は水戸家を忌避。その中で篤姫もまた、大奥の意向を動かそうと奔走しますが、家定から大老に任命された井伊直弼が、慶福を継嗣にしたことで、派閥争いは決着しました。
和宮との確執、そして連帯
篤姫が大奥の頂点に立つ中、14代将軍・家茂の正室として皇女・和宮が降嫁してきます。篤姫は武家出身で和宮は公家出身という生い立ちの違いや、姑・嫁という立場からも対立や軋轢があったことが知られています。
しかし、時代が倒幕へと大きく動く中、篤姫と和宮は「徳川家を守る」という共通の目的のもと、やがて強い連帯感で結ばれることになります。家茂の急死、徳川慶喜による大政奉還、そして官軍の江戸進軍という激動の中、二人はそれぞれの実家や関係先に徳川存続の嘆願を重ねました。
この時、篤姫が薩摩出身の西郷隆盛に宛てた手紙は、江戸城無血開城への道を開いた重要な働きかけとして知られています。感情に訴え、時に命をかけて家の存続を願うその文面は、歴史の分水嶺となったのです。
江戸城開城と、明治時代への適応力——「徳川の女」としての矜持
江戸城が無血で開城されると、天璋院は大奥の代表として最後まで城に残り、退去後は「徳川家の人」として明治の世を生きます。彼女は決して出身の薩摩藩には頼らず、あくまで徳 川宗家の後見人として16代当主・家達らの養育に専念しました。
明治維新後、天璋院は質素な生活を貫き、家達の教育方針として“質実剛健”を掲げました。支援の申し出があっても「自分が守るべき家は徳川である」と断ったという逸話も残っています。華やかな大奥時代とは一転、地道な倹約と育成の日々。しかし、ここにも天璋院の“覚悟”と“誇り”が表れているのです。
また、勝海舟らと交流を持ちながら、外出や文化活動に積極的だったことも記録されています。この柔軟で前向きな適応力は、時代の変化を生き抜く知恵そのものでしょう。
多くの人に慕われた最期
天璋院が49歳で亡くなった際、1万人もの人々が葬儀に詰めかけたといいます。また、徳川宗家では、戦前まで天璋院の月命日に彼女の好物を供える習慣が続きました。これは“名家の伝統”を超え、篤姫という個人が持つ人間的魅力、そして与えた影響の大きさを物語っています。
天璋院篤姫が現代に遺した“本当の意味”
篤姫の人生は、決して“運命に流された姫”ではありません。大奥での権力闘争に身を投じ、家を守るために全身全霊を尽くし、時代が大きく変わる中でも“自分の居場所”を見いだし続けたその姿は、「変化の時代を生き抜く力」の象徴に他なりません。
現代社会でも、企業のリーダーや家族の中心に立つ存在は、しばしば“外からの期待”と“内なる葛藤”の板挟みになります。そんな時、天璋院篤姫の歩んだ道に、私たちは多くのヒントを見出せるはずです。
- 組織や社会がどう変わろうとも、自分の信じる価値や目的を見失わない
- 新たな環境や立場にも柔軟に適応し、周りの信頼を築く
これらは、幕末から明治という激動の時代を駆け抜けた篤姫が、現代の私たちに贈る“普遍のメッセージ”なのかもしれません。
まとめ
天璋院篤姫は、薩摩の姫から徳川家の御台所、そして明治の世を生きる“徳川の女”へと、その生涯で劇的な変化を経験しました。しかし、どの場面でも「自分は今、誰のために、何のためにここにいるのか」を問い続け、それに応じて行動を続けたのです。
篤姫の人生は、時代や環境が変わっても、人が生きていく上で大切な“信念”や“覚悟”を、私たちに力強く語りかけてくれます。
「時代の転換点にあって、あなたはどう生きるか?」
天璋院篤姫の生涯は、現代に生きる私たち一人ひとりに、そんな問いを投げかけているのです。

