
志高き幕末の風雲児・坂本龍馬とは
10/22(水)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/21
多くの人が「真田幸村」と聞いて、赤い甲冑に身を包み、少数で大軍に挑む勇姿を思い浮かべるのではないでしょうか。実は「真田幸村」という名は本人が名乗った記録がなく、彼の本当の名前は「真田信繁(さなだ のぶしげ)」です。江戸時代、講談や軍記物で「幸村」の名が広まるとともに、後世の日本人の心の中に“英雄”として生き続ける存在になりました。
真田幸村の物語は、なぜこれほどまでに人々を惹きつけてやまないのでしょうか。その生涯をたどることで、現代にも通じるリーダーシップや覚悟、そして人間味あふれるその姿が見えてきます。
1567年、信濃国(現在の長野県)で誕生した真田信繁。父は「戦国の知将」と名高い真田昌幸、兄はのちに松代藩主となる真田信之です。真田家は、武田信玄という当時最強と呼ばれた戦国大名に仕え、信繁も幼少期から合戦や謀略に明け暮れる日々を送りました。
しかし、時代は激しく動きます。1582年、武田氏の滅亡。主君を失った真田家は、その生き残りをかけ、織田家・徳川家・上杉家など強国の間を立ち回ることとなります。父・昌幸は、絶妙なタイミングで主君を変えて家を守りました。その姿を間近で見て育った信繁には、“変転する時代に翻弄されながらも信念を貫く”という気質が自然と身についたことでしょう。
戦国時代、家の存続のためには人質に出されるのが当たり前でした。信繁もまた、19歳で上杉家に人質として送られます。しかし、単なる“人質”にとどまらなかったことが、彼の非凡さを物語ります。上杉景勝からは家臣同様の待遇を受け、土地まで与えられたのです。
その後、父・昌幸が徳川家との対立を深めるなか、豊臣秀吉が台頭。信繁は豊臣家の人質として大坂へ。ここで彼の才覚に目をつけた秀吉は、信繁を自身の馬廻(親衛隊)に抜擢します。信繁は豊臣家の文化や戦術を吸収し、同時に人間的な信頼を築き上げていきました。
秀吉は信繁の知略と胆力を高く評価し、「豊臣家の未来を託せる人材」として重用したのです。これが後に、豊臣家最後の希望として立ち上がる土台となりました。
1600年、天下分け目の「関ヶ原の戦い」。ここで真田家は大きな決断を迫られます。兄・信之は徳川家康側、父・昌幸と信繁は石田三成率いる西軍側に付きました。「どちらに転んでも真田の名を残す」──そんな戦国武将の現実的な知恵も感じられます。
信繁と昌幸は、上田城で徳川秀忠(家康の嫡男)率いる3万8千の大軍を迎え撃ちます。わずか3千の兵で巧みに時間を稼ぎ、関ヶ原本戦に秀忠軍を間に合わせなかったのです。この機転が徳川家康を大いに悩ませたことは、当時の史料にも残っています。
しかし西軍は敗北。信繁と父・昌幸は死罪を免れるも、紀伊国九度山(現在の和歌山県)に流され、長い幽閉生活を余儀なくされます。
九度山での14年間、信繁は貧しく厳しい生活を強いられました。食料にも事欠く日々、それでも彼は諦めませんでした。家族やかつての家臣たちと慎ましく暮らしながら、いつか再び戦の舞台に立つ日を夢見ていたのです。
「定めのない浮世なので、一日先は知りませぬ。我々のことなどは、浮世にある者と思わないでください」
いつ命を落とすかわからない不確かな時代において、「今を精一杯生きる」ことの大切さを語っていたのでしょう。現代にも響く、覚悟と達観の言葉です。
1614年、豊臣家と徳川家の関係が再び険悪となり、「大坂冬の陣」が始まります。ここで信繁は九度山を脱出し、大坂城に入城。豊臣家の“最後の砦”として、浪人たちや旧臣が次々と集結しました。
この時、信繁が考案したのが「真田丸」──大坂城南側に築かれた独立した要塞です。地形を巧みに活かし、堀や柵を幾重にも巡らせたこの砦は、徳川の大軍を何度も撃退します。たった4千の兵で、2万6千もの徳川軍を撃退した戦いは、戦国史上屈指の「知略の結晶」として語り継がれています。
信繁は軍議でも主戦派に反対し、籠城策や奇襲策を提案しましたが、「裏切りを警戒する声」に押され思うようにいきませんでした。それでも、自ら任された真田丸の守備で奇跡的な勝利を収めます。
大坂冬の陣の後、徳川家康は和議を結ぶものの、大坂城の堀を埋め、いよいよ豊臣家討滅へと動きます。翌1615年、「大坂夏の陣」が勃発。もはや守る場所はなく、野戦での決戦となりました。
信繁は豊臣方の主力として、毛利勝永らとともに最前線に立ちます。家康本陣への奇襲作戦を決行し、何度も家康の元に肉薄。「家康が二度も自害を覚悟した」と伝わるほどの激戦となりました。
この時、信繁は配下の士気を鼓舞するため、こう叫びます。
「敵は100万と言うが、男はひとりもいないぞ」
これは、不利な状況でも決して怯まない覚悟と誇りの現れです。圧倒的な数の差を前にしても、信繁とその軍勢は最後まで戦い抜きました。しかし、次々と仲間が倒れ、自らもついに力尽きます。享年49歳、安居神社で最期を迎えました。
信繁は徳川家康から「信濃一国を与える」という寝返りの誘いを受けたにもかかわらず、毅然と拒否しました。
この覚悟が、武士たちの心を打ちました。彼には豊臣家への義や、戦国武士としての美学があり、勝ち負けを超えた“潔い最期”を選んだのです。
その死後、多くの武将や民衆が「日本一の兵」と称え、細川忠興や島津家久など、敵であった者たちからも賞賛の声が相次ぎました。
真田幸村(信繁)は、「日本一の兵」と呼ばれ、豊臣家最後の砦として歴史に名を刻みました。義と覚悟に生き、美しく散ったその姿は、現代においても多くのリーダーや挑戦者の心を奮い立たせています。
時代が変わっても、その精神は色あせることなく、今も私たちに問いかけ続けます。
「あなたは、どんな困難の中でも自分の信じる道を貫けるか?」
真田幸村の物語は、今日もまた新たなチャレンジへの勇気を与えてくれるのです。