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2025

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    志高き幕末の風雲児・坂本龍馬とは

    志高き幕末の風雲児・坂本龍馬とは

    あなたは「坂本龍馬」と聞いて、どんな姿を思い描きますか?
    カリスマ、改革者、あるいは倒幕の黒幕。
    日本の歴史上、これほどまでに多面的で生涯を駆け抜けた人物はほとんどいません。

    彼が生きたのは、まさに激動の幕末。なぜ、土佐の一介の下級武士だった青年が、やがて国の運命を左右する存在へと飛躍できたのでしょうか?

    本稿では、坂本龍馬の言葉や行動、そして彼を突き動かした想いに迫りつつ、その生涯をたどっていきます。

    幼少期

    坂本龍馬は、1835年11月15日、現在の高知市にあたる土佐藩に生まれました。坂本家は元々商家の分家で、武士とはいえ下級身分の郷士でした。龍馬は6人兄姉の末っ子として生まれます。父・八平は厳格な人物で、母を12歳で亡くした後は、3歳年上の姉・乙女が母代わりとして龍馬を支えました。

    一部には「落ちこぼれ説」もありますが、実際には学問よりも武芸に秀で、14歳からは日根野道場で剣術修行に励みました。彼の自由な発想や行動力の源泉には、型にはまらずに育った家庭環境や、異国の話を好んで聞いた幼少期の経験が色濃く影響しています。

    青春と黒船――世界への目覚め

    1853年、龍馬が19歳の時、江戸で北辰一刀流の千葉道場に入門し剣の腕を磨いていました。

    その年、ペリーの黒船来航という事件が日本社会を揺るがします。当時の龍馬も例外ではなく、「もし戦争になれば異国の首を討ち取って土佐へ帰ります」と父に手紙を書くほど、攘夷思想に燃えていました。

    しかし、帰国後に知識人・河田小龍と出会い、世界の広さと日本の現実を痛感します。

    「日本が外国と対等に渡り合うには、海軍力と新しい時代の人材が必要だ」と教えられた龍馬は、次第に攘夷一辺倒の考えを捨て始めます。ここで得た「柔軟な発想」が、後の彼の躍進を支える大きな転機となりました。

    土佐勤王党と脱藩――「草莽崛起」の精神

    1861年、全国で尊王攘夷運動が高まる中、龍馬は親友・武市瑞山の率いる土佐勤王党に参加します。やがて長州藩の久坂玄瑞と交流し、「これからは志ある在野の人々=草莽が立ち上がるべきだ」と説かれました。

    翌1862年、龍馬はついに脱藩を決意。これは今でいえば“パスポートなしで国境を越える”ほどの大罪です。「国のために命を懸ける覚悟」が、ここで試されました。

    藩のしがらみを脱ぎ捨てた瞬間から、坂本龍馬の新しい人生が始まったのです。

    勝海舟との出会い――「師」との邂逅が世界観を一変

    脱藩後、龍馬は運命的な人物と出会います。それが勝海舟でした。当初、龍馬は「今宵の事ひそかに期する所あり。もし公の説明如何によりては、敢えて公を刺さんと決したり」と暗殺も辞さぬ覚悟で勝邸を訪れたと伝わります。

    しかし、勝の「世界と交易し、国力を高めなければならない」という論に感化され、「大いに余の固陋を恥ず。請う、これよりして公の門下生とならん」と即座に弟子入りを申し出ます。

    この心の変化は、龍馬自身が姉・乙女に宛てた手紙にも表れています。「日本第一の人物勝麟太郎殿という方の弟子になり」と、誇らしげに報告しているのです。

    神戸海軍操練所と「人を動かす力」

    勝海舟のもとで、龍馬は海軍操練所の設立に携わり、神戸で新しい学び舎の塾頭も任されました。彼の周りには、身分や藩を越えた多様な人材が集まりました。

    この時期、龍馬の「人たらし」とも言える魅力と度量の大きさが最大限に発揮されます。

    勝海舟は「坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ」と語り、その見識と人を見る目を高く評価しています。さらに、薩摩藩の西郷隆盛とも出会い、後の歴史的大同盟の布石を打つことになります。

    亀山社中の設立――「日本初の商社」が生んだ新たな潮流

    1864年、尊王攘夷勢力への弾圧が強まると、神戸海軍操練所は閉鎖され、龍馬たちは行き場を失います。

    しかし、ここで龍馬は「時代を読む力」を発揮。薩摩藩の庇護のもと、長崎にて日本初の株式会社ともいえる「亀山社中」を設立します。

    この組織は単なる海運業にとどまらず、倒幕運動への資金供給や、軍事力強化の拠点ともなりました。

    「義理などは夢にも思うことなかれ。身を縛らるるもの也」

    龍馬は、しがらみや形式にとらわれず、実利と理想を両立させる現実主義者でもあったのです。

    薩長同盟――「天下のために将来を協議せざるか」と喝破

    1866年、龍馬はついに「薩長同盟」という歴史的偉業を成し遂げます。 当時、薩摩と長州は犬猿の仲。両藩の面子や不信感が交渉を阻んでいましたが、龍馬は

    「おれが両藩のために挺身尽力するのは、決して両藩のためにあらざるなり。区々の痴情を脱却し、何ぞ丹心を吐露し、天下のために将来を協議せざるのか」

    と、当事者を一喝。この一言が両者の心に火をつけ、同盟成立の決定打となったのです。

    海援隊と「船中八策」――未来を描いたビジョン

    1867年、龍馬は亀山社中を「海援隊」と改称し、土佐藩の組織として再出発します。

    この頃、長州・薩摩は武力討幕を目指していましたが、龍馬は「国内戦争を避けるべき」と考えます。そこで彼が後藤象二郎に示したのが、「大政奉還」を含む「船中八策」です。新しい日本の制度設計を具体的に提案したこのビジョンは、後に明治政府の礎となります。

    「恥という事を打ち捨てて、世の事は成るべし」

    龍馬は、古い体制や私怨にとらわれず、常に「国のため、未来のため」に動き続けました。

    暗殺――33年の生涯が遺したもの

    1867年11月15日。
    龍馬は京都・近江屋で中岡慎太郎と会談中、何者かに襲撃され命を落とします。享年33歳。

    その死は謎に包まれ、今も多くの議論を呼んでいます。

    しかし、彼が駆け抜けた短くも濃密な生涯は、多くの人の心に「変革の勇気」と「未来への希望」を灯しました。

    なぜ龍馬は今も人を惹きつけるのか?

    坂本龍馬の最大の特徴は、「誰よりも早く変化を受け入れ、誰よりも柔軟に人と人を結びつけ、誰よりも未来を見据える力」にありました。

    彼は、学問や家柄に恵まれたわけではありません。むしろ“普通”の出自のまま、「義理」や「恥」といった日本的な枠組みすら飛び越えました。「人間そのものが開明的だった」と評される所以です。

    人の心を動かし、時代の閉塞感を打ち破る“情熱”と“しなやかさ”

    それこそが、現代にも通じる坂本龍馬の本質なのです。

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