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銃を手に時代を切り拓いた女性──新島八重の生涯
ビジョナリー編集部 2025/10/28
「女性が銃を手に戦場に立つ」。150年以上前の日本にそんな女性がいたことをご存じでしょうか。会津藩のジャンヌ・ダルクとして名を馳せた新島八重。その生涯は、激動の幕末と明治維新を生き抜いたひとりの女性の物語であり、同時に私たち現代人が「どう生きるか」を考えさせるヒントに満ちています。
男まさりの少女、会津の砲術師範の娘として
新島八重が生まれたのは1845年、江戸末期の会津(現在の福島県会津若松市)。父・山本権八は会津藩の砲術師範として知られ、八重もその影響を色濃く受けて育ちました。幼い頃から兄・覚馬に洋式砲術の指南を受け、裁縫よりも砲術に夢中だったといいます。
実際、13歳の八重は四斗俵を肩に乗せて何度も上げ下げしたという逸話が残されています。少女が力仕事を厭わず、男児たちに混じって遊び、さらには自らも周囲へ砲術を教える──その姿は、当時の「女性らしさ」の枠から大きくはみ出していました。
戦場に立つ──「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれるまで
1868年、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発。会津藩は旧幕府側として新政府軍と激しく戦うことになります。戦火が会津に及び、鶴ヶ城(会津若松城)が包囲された際、八重は自ら髪を断ち、男装して籠城戦に加わりました。スペンサー銃という当時最新鋭の連発銃を手に、城の一角から敵を狙撃し続けたのです。
このとき八重が持ち込んだスペンサー銃は、城内で唯一の貴重な武器でした。弾薬もわずかしかありませんでしたが、八重は幼少期から鍛えた技術で次々と敵を撃退し、後に陸軍大臣となる大山巌にも重傷を負わせたと伝えられています。女性が前線で戦うなど前代未聞のこと。八重は「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれるにふさわしい覚悟と行動力を体現しました。
戦いの最中、八重は多くの家族や仲間を失います。父や弟、そして籠城戦で一緒だった夫・川崎尚之助とも離別を余儀なくされました。
「鉄砲」から「知識」へ──京都での新たな挑戦
戦いに敗れ、会津を追われた八重は、3年後、兄・覚馬を頼って京都へと向かいます。26歳で新天地に身を置いた八重は、ここで人生の新たな武器を手にします。それが「知識」と「教育」でした。
兄の推薦で女紅場(女子教育機関)に勤め始めると、茶道や英語、西洋の文化にも積極的に触れるようになります。当時、英語を話せる女性はほとんど存在せず、八重の好奇心とバイタリティーは周囲を驚かせました。洋装や帽子も着こなし、まさに“時代の先駆者”として自らの道を切り開いていきます。
この頃、八重は同志社英学校(現在の同志社大学)の創立者・新島襄と出会い、やがて結婚します。1876年、京都で初めてとなる日本人同士のキリスト教式結婚式を挙げました。
「悪妻」と呼ばれても──自らの信念を貫いたハンサムウーマン
封建的な価値観が色濃く残る明治初期、八重は「男女平等」を強く望み、夫を「ジョー」と呼び捨てにしたり、人力車に乗る際も襄より先に座席に座るなど、従来の「良妻」像とは正反対の行動をとりました。
こうした姿勢に、世間からは「悪妻」「鵺(ぬえ)」といった蔑称が投げかけられます。しかし、八重は全く動じることはありませんでした。襄自身も、「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです」と手紙に記すほど、八重の潔さと芯の強さを高く評価していました。
同志社英学校の運営にも八重は積極的に関わります。かつて会津を攻めた薩摩や長州出身の学生に厳しく接するなど、武士の誇りと道徳を貫いた一面もありました。西洋の合理性と日本の精神性、その両方を自らの中で融合させていたのです。
日本のナイチンゲールへ──看護と社会貢献
夫・襄が1890年に病に倒れた後、八重は新たな使命を見つけます。日本赤十字社の一員として、日清戦争や日露戦争の戦地で傷病兵の看護に尽力しました。40人の看護婦を束ね、看護婦の地位向上にも力を注ぎます。その功績は高く評価され、勲七等宝冠章、さらに後には勲六等宝冠章などの栄誉に輝きました。
「弱者はいたわらなければならぬ」という会津の教えを胸に、八重は戦場と教育現場の両方で女性の新たな生き方を切り拓いたのです。明治・大正・昭和にまたがる人生の中で、社会的な偏見や困難に何度も直面しながら、自らの信念を貫き通しました。
新島八重の生き方が現代に問いかけるもの
新島八重の人生は「男まさり」「先進的」といった言葉だけでは語り尽くせません。会津で培った誇りと、京都で身につけた西洋文化を融合させ、時代の変化に柔軟に対応しながらも、一本筋の通った信念を持ち続けました。
もし八重が現代に生きていたら、女性のリーダーとして社会に新たな風を吹き込んでいたことでしょう。男女の枠を超えて「自分らしく生きる」ことの大切さ、困難な状況でも自ら選択し、行動する勇気──それこそが、八重の生き方から私たちが学ぶべき最大のメッセージです。
終わりに
1932年、86歳でこの世を去った新島八重。彼女の墓は、京都市左京区、夫・襄の隣に静かに佇んでいます。社会の常識や偏見に屈せず、戦場を駆け抜け、教育や看護の現場で新たな価値を築いた八重。その名は多くの人に語り継がれています。
あなたが何か新しい一歩を踏み出すとき、周囲の目や古い常識に迷ったとき、ぜひ新島八重の生き方を思い出してください。自分らしさを貫き、時代の壁を乗り越えたその姿勢こそが、現代人にとっての“生きる指針”となることでしょう。

