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100年の感動はこうして生まれた:世界を目指した熱い志とメディアが創り上げた「箱根駅伝」の歴史
ビジョナリー編集部 2026/10/26
正月の風物詩として、日本中に熱狂と感動を巻き起こす「東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)」。小説やドラマも話題になっている国民的スポーツイベントとなった大会ですが、その歴史の幕が開けたのは1920年(大正9年)のことでした。
世界に通用するランナーを育成したいという志から生まれ、戦争による苦難の時代や中断、そしてラジオやテレビといったメディアの発展に伴う改革を経て、現在の地位を築いてきました。100年を超える歳月の中で、箱根路はどのように「国民的行事」へと成長していったのでしょうか。その歴史を紐解きます。
世界を目指した熱い志と言葉の由来
大会の歴史は、日本のマラソン界の父と呼ばれる金栗四三(かなぐりしそう)らの強い思いから始まりました。目指したのは世界で戦える長距離ランナーの育成です。「アメリカ大陸横断駅伝」を構想したものの断念し、最終的に東京と箱根を結ぶコースを設定。第1回大会は、東京高師(現・筑波大)、明治大、早稲田大、慶應義塾大の4校による「四大校駅伝競走」としてスタートを切りました。当時は20キロを走ることができる学生を集めることも難しく、5区は日も暮れた中で、雪も積もる道をたいまつが照らすコースを走ったそうです。
ところで、日本独自の競技スタイルである「駅伝」という言葉の由来をご存知でしょうか。言葉自体は奈良時代の「駅馬・伝馬の制度」という古代の交通通信制度にさかのぼりますが、スポーツ種目としての名称は、1917年に開催された日本初の駅伝「東海道五十三次駅伝競走」の際に誕生しました。この大会は箱根駅伝の原型といわれ、京都の三条大橋から東京までの516キロを昼夜問わず走るというものでした。東西2チームの各23人のランナーが襷を繋ぎ大成功をおさめました。
江戸時代に宿駅ごとに馬や人を乗り継いだ故事にちなみ、当時の関係者が名付けたこの呼称が、そのまま現在にも受け継がれているのです。
戦火に翻弄されながらも途切れなかった襷(たすき)の歴史
順調に発展していくかに見えましたが、やがて太平洋戦争の激化により大きな試練を迎えます。戦局の悪化に伴い、1941年、1942年、そして1944年から1946年にかけての期間は、開催中止を余儀なくされました。特に若い学生たちが次々と戦場へと赴く中、スポーツを楽しむ余裕はありませんでした。
しかし、そのような暗い時代にあっても、完全に消えることはありませんでした。1943年には、発着点を靖国神社、折り返しを箱根神社とする「靖国神社-箱根神社間往復関東学生鍛練継走大会」が開催され、これがのちに第22回大会として公式に数えられることになります。そして終戦後の1947年、大会は復活を果たします。焼け野原が広がり、疲弊しきった日本社会において、懸命に襷をつなぐ大学生たちの姿は、人々に明日への希望と生きる勇気を与える大きな光となりました。
ラジオとテレビが創り上げた「正月の国民的行事」
今日のような「国民的行事」へと押し上げた立役者は、放送メディアの進化でした。転換点となったのは1953年、NHKラジオによる中継の開始です。これをきっかけに、開催日程が現在の「1月2日・3日」に固定され、日本中が速報に耳を傾ける正月の新しいライフスタイルが定着していきました。
さらにテレビの登場が、大会の人気を決定的なものにします。1979年に一部録画形式での放送が始まり、1987年には日本テレビによる中継が本格化しました。当時は電波の届きにくい山中への中継基地の設置や、ヘリコプターの運用など技術的な困難が山積みでしたが、関係者たちの努力により1989年に全区間完全生中継が実現します。関東ローカルのイベントだった箱根駅伝は、日本中が固唾をのんで見守る一大エンターテインメントへと飛躍を遂げたのです。
終わりに:時代を超えて受け継がれるドラマ
100年を超える歴史を振り返ると、そこには「世界へ羽ばたくという情熱」と「どんな困難があっても歩みを止めない強い意志」がありました。コースの調整や出場枠の拡大、そして現代のデジタル配信といった時代の変化はあっても、ランナーたちが襷に思いを込めて駆け抜ける本質は、一世紀を経た今も変わりません。正月に胸を熱くするのは、この歴史の重みと、若者たちが紡ぎ出すひたむきなドラマの力を感じ取っているからではないでしょうか。


