
執行役員と立川店店長時代 ――店舗から学ぶ経営
4/28(月)
2025年
大西 洋 2025/04/13
前回は、伊勢丹男の新館のリモデルプロジェクトのスタートについて記した。プロジェクトが掲げたのは『世界No.1のメンズファッションストア』。
1990年代後半、百貨店業界はバブル崩壊の影響で苦境に立たされており、伊勢丹もその例外ではなかった。
そんな中、武藤社長は、百貨店改革の必要性を強く訴え、「顧客の心を動かす百貨店をつくる」という信念を持ち続けていた。
そこで、当時ダウントレンドの男性市場と言われる中、“ファッション”を軸とした独自の紳士ファッション市場に着目し、従来の枠を超えた革新的な決断を下したのだ。こうして2003年9月10日、「男の新館」は「メンズ館」として生まれ変わる。
プロジェクトを発表した当時、この新たな挑戦に対しては、さまざまな見方があった。当時はリーズナブルな価格帯の紳士服店が注目を集める一方で、“紳士ファッション市場”に特化した大規模投資に疑問を持つ声も少なくなかった。しかし、武藤社長はそのすべてを受け止めた上で、意志を貫いた。
2003年頃から、国道16号沿いにリーズナブルな紳士服店が出店し非常に話題となっていた。AOKIや青山など、チェーン展開の紳士服も次々と市場へ出てきた。そうしたカテゴリーキラーに百貨店の紳士服業界は打撃を受け、スーツを扱わない店舗も増えていたのだ。そのような部門に、数十億単位の投資をすることに対し、マスコミからも懐疑的な声が寄せられたのは事実である。逆に言うと、そのような時代にもかかわらず、勇気ある決断をしてくれたのが、武藤社長なのである。
メンズ館始動にあたり、社長から、「お前らのベンチマークはなんだ」と問われた。私が挙げたのはニューヨークのバーグドルフ・グッドマンだ。プラダやグッチなどのラグジュアリーブランドを扱う高級百貨店で、世界でもっともカッコいい店だと思っていた。
しかし、そこでさえ年間の売上が100億円程度であった。しかし私たちが掲げたのは、それをはるかに上回る数値。売上構成比を大きく塗り替えるような、高い目標だった。
武藤社長は、「4人に1人が紳士服を買うところを3人に1人にしろ」と号令をかけた。社長からのこの言葉が、我々に問われた“覚悟”だった。
やるならば、カッコいい店を作りたい。そう決めていた私は、「伝票のペンを200円のペンではなく万年筆にしたい」、「ユニフォームはカッコいいもので揃えたい」と、要望を出した。
そうすると武藤社長は言った。「わかった。だけど俺が決めるわけじゃないから、ユニフォームの必要性をみんなに説明し、一回で納得させろ」。
こうして機会をもらい、自分が役員会で話すと、ある常務が「メンズは覚悟を決めてやっているのだから、やらせてやりましょう」と呼びかけてくれた。
これは後に知ったことだが、社長は事前に関係者に話を通し、私が発言できる場をつくってくれていたのだという。前面には出さずとも、背後で支えてくれる――そんな姿勢に、私は大きな感謝と尊敬の念を抱いた。
とはいえ、社内には婦人部門を中心に、紳士部門の拡大に慎重な意見も少なくなかった。しかしここまでくれば、もはや何をやってもチャンスなのである。
武藤社長は強い意思を持ち、自らも“広告塔”として前面に立った。自らエドワード・グリーンの靴を履いてメディアの取材に応じ、その価値を語った。「メンズ館では、こうした一足が1週間で100足売れることもある」と。
メンズ館は結果として、当初の目標を上回る成果を出す。達成できるはずがないと言われていた目標を達成したのだ。
一部には、あの時点での判断に対する異論もあったかもしれない。しかし、私にとって武藤社長は、信念と責任、そして部下を信じ抜く覚悟を体現した経営者であり、心から尊敬する存在だった。
百貨店協会の会合に登壇すると一番格好よく、それこそエドワード・グリーンを履いているのは彼だけだった。
そして仕事には揺るぎない厳格さをもって臨み、社員が企画書を持ってくると、「これは何だ?」ではなく「何を覚悟しているのか」と真剣な口調で意思を確かめていた。
そんな仕事に対する姿勢を見せてくれた武藤社長は、私の恩人のような存在であったのだ。