
伊勢丹の社長として最初の改革―― 百貨店の生き残...
4/28(月)
2025年
大西 洋 2025/04/16
三越へMD統括部長として出向していたとき、私の立場は常務になっていた。
常務に就任してから1年が経過した2009年6月のある日、ホールディングスの会長になっていた武藤社長(以下会長) から、「話がある」と電話があった。
普段は厳格で、熱意を持って話す会長だが、その電話は非常に静かなトーンだった。このことを、妙に不思議に思ったことを覚えている。自分から事務所に伺おうとしたが、会長自ら日本橋へ足を運んでくれた。
ちょうどこの時期は、北海道にある丸井今井という百貨店の社長が辞任したタイミングだった。三越に出向していた私は、その後任に任命されるのだろうか、などと考えていた。しかしそんな憶測とは裏腹に、会長は「今から3時間自分が話す」と切り出した。
そして彼は、本当に3時間、一人で話し続けた。その話の中で、私にこう告げたのだ。
「大西、伊勢丹の社長をやれ。」
一般的には、「時間をかけて検討してほしい」と言われる場面かもしれない。しかし、会長からの言葉は違った。
「もう時間がない、今ここで決めてくれ。事業会社にトップがいない状況は避けたい」と。メンズ館の立ち上げ時と同様に、私に覚悟を問うてきた。
私は、「やらせていただきます」と即決した。覚悟を決めたというより、武藤会長への恩を受け継ぐ責任として自然に出た言葉だった。
こうして、私は伊勢丹の社長に就任することになった。
その後、武藤会長はご体調を崩し、入院されることになる。最低でも週に一度は報告へ行き、さまざまな話をした。いったん快方へ向かいかけたのだが、年末には再び体調を崩され、年の瀬の12月31日に、私は会長に電話をかけた。
「社長を半年務めさせていただきましたが、まだ十分な結果を出せておらず、申し訳ございません。」
当時、新業態の『イセタン ミラー』というラグジュアリーコスメを集めたセレクトショップを準備していたのだが、主要ブランドの1つと交渉が難航しており、突破口が見つからず悩んでいた。すると会長は穏やかにこう応じた。「まだ半年だから気にするな、私の方からも話をしておくよ。」
それが、私が直接いただいた武藤社長の最後の言葉となった。翌年1月6日、武藤会長は静かに永眠された。
厳しくも温かい会長の姿勢から、私は数えきれないほどの学びを得た。後に聞いた話だが、彼が部長時代に、海外出張同行したバイヤーに、毎日細かく報告をさせていたそうだ。
その日1日、どのような目的で何を買い付け、どうやって店舗で販売していくのか、その日のうちにレポートを作成させ、翌朝朝食の場で一人ひとりにプレゼンをさせていたという。その準備のため、バイヤーは部屋にこもり、サンドイッチなどをつまみながら、準備に励んでいたと聞く。
これも、彼を象徴するエピソードだと思う。彼は、本当に伊勢丹のことを考え動き続けたリーダーだった。
余談だが、伊勢丹はかつて三越とは別の百貨店とも資本提携交渉をしていたのだが、その会社のバイヤーたちは、ともに出張へ行くと「仕事のあとはあそこへ遊びに行こう、あそこへ食べに行こう」と話しており、なかば観光気分で臨んでいたという。企業文化があまりにも違いすぎたため、その百貨店との資本提携交渉は打ち切ったという話もある。
武藤会長は私の恩人であり、伊勢丹の社長として、誰よりも伊勢丹の未来を考え行動し続け、生涯の幕を閉じた。伊勢丹に人生を捧げた生き様は、私にとって誇りである。
彼のもとで、もっと多くのことを学びたかったと今でも思うのである。