
恩人から託された想い
4/28(月)
2025年
大西 洋 2025/04/15
三越への出向が決まった際、伊勢丹側から派遣された“第1期生”は3名。婦人統括部長を務める私の同期、もう一人は紳士部門の統括部長。そしてマーチャンダイジング統括部長である私だった。
しかし出向当初から、これまで経験したことのない企業文化の違いに直面することになる。
三越の企業文化は、伊勢丹のそれとは全く異なるものだった。たとえば会議では、会議室の後方に会議と直接関係しない社員が数名控え、議論の様子を見守っているという光景があった。
理由を尋ねると、「上司の話す内容や指示を共有するためです」とのことだった。
伊勢丹で培った“現場重視”の感覚からすると、危機的な状況にある中で、より現場の実行力を高めることに時間を使うべきだという想いが湧き上がった。
「まずは店舗に立ち、お客さまの声に向き合ってほしい」。そう伝えたことを今でもよく覚えている。
店頭でも、価値観の違いを実感する出来事があった。
混雑する売場で若手社員が腕を組んで立っていた。店頭は非常に混んでいたので、本来は販売に参加しなければならないのだが、彼はただ見ているだけだった。
私が販売を手伝おうとすると、邪魔者扱いで、「そこのおじさん」と呼ばれる始末だ。
「お客さまのことをもっと見なければ会社の先はない。目の前の現場を見ずして、企業の変革はない」。そう確信し、改善に向けた行動を起こすことを決めた。
経営の意識を根底から変えるには、トップ層の出向だけでは不十分だと判断し、現場を担うアシスタントセールスマネージャーを三越に派遣することを提案した。
必死に働く女性社員を送り、現場から変えていこうという戦略である。
この考えを武藤社長に告げたところ、紳士部門から十数名のアシスタントセールスマネージャーを三越へ送ってもらった。
当時、三越は長い歴史と伝統を持ち、確固たるブランド力を築いてきた。百貨店の取材となれば、日本橋店の店長が対応するのが常だったほど、長い歴史と伝統があった。
日本橋本店には老舗としての信頼が寄せられ、多くのお客さまがその格式に惹かれて来店されていた。しかし当時は、業界全体が厳しい局面にあり、三越も例外ではなかった。だからこそ、現場にもう一度活力を取り戻す必要があった。
出向中は可能な限り現場に足を運び、多くのスタッフと面談を重ね、現場の人間の頑張りのお陰もあり、三越内の雰囲気は徐々に変わっていった。
もちろん、分かってくれた人も、そうではない人もいたことだろう。これからの百貨店の歩むべき未来、そのために我われ売場のスタッフは何をなさねばならないのか。価値観の異なる人たち一人ひとりに決死の想いで語る労力は思った以上に大きかったのか、自分も帯状疱疹を発症していた。
それでも、三越と合併しようとする伊勢丹には、もとい武藤社長には、将来を見据えたビジョンがあった。当時伊勢丹は新宿本店しか知名度のある店舗がなく、支店も決して成功しているとは言えなかった。一方で三越は長年の歴史と全国に広がる店舗網が強みだった。
彼らと統合すれば、伊勢丹を全国ブランドにできる、と。
当時はアメリカの百貨店でも統合が始まっており、日本にもその波が来るだろうと武藤社長は予見していたのだ。
ならば、経営統合をしようと彼がおもむろに呼びかけたのが、提携交渉の発端だ。「いまこそ業界の枠を超えた再編が必要だ」という考えと、三越を助けるという思いとともに、伊勢丹を全国ブランドにするという信念のもと、百貨店としての生き残りを考えていたのだ。