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#10歴史の節目に立ち会える報道の魅力――田中角栄氏との出会い
三木 明博 2025/10/10
報道部への配属は、私自身としては不本意なスタートでしたが、今となっては本当に良かったと感じています。なぜなら、普通の社会人では決して味わえないような、時代の節目となる歴史的な瞬間に、立ち会うことができたからです。
以前お話しした三島事件もそうですが、政界で言えば、田中角栄氏と福田赳夫氏が熾烈な総裁選を争った、有名な「角福戦争」の現場も忘れられません。自民党の総裁選は、九段下にあった旧軍人会館(現在の九段会館テラス)で行われました。非常に歴史のある建物で、私たち報道陣の下っ端は、演壇のすぐ近くでマイクを構え、その音を録っていました。
角栄氏、福田氏双方の演説は凄まじい熱気に包まれていました。当時は金が飛び交ったなどとまことしやかに囁かれていましたが、それを差し引いても、会場には尋常ではないエネルギーが渦巻いていたのです。
かたや福田赳夫氏は、東大法学部から大蔵省を経て政治家になった超エリート。対する田中角栄氏は、新潟の片田舎から身を起こし、一国の総理の座を争うまでになった叩き上げです。全く異なる経歴を持つ二人の熱気が、会場で激しくぶつかり合っていました。
そして、投票結果が「田中角栄君を総裁に推薦することに決まりました!」と発表された瞬間、会場は地鳴りのような歓声と怒号に包まれました。「うわーっ!」という熱狂的な拍手と、「なんだ!」という落胆の声。会場全体が揺れるような、人間の剥き出しの感情を肌で感じ、本当に胸が震えるような思いでした。
どちらかの支持者というわけではありませんでしたが、あれほど人間が熱狂する様を目の当たりにしたのは強烈な体験でした。その後も、記者会見などで角栄氏の言葉に触れる機会がありましたが、あの方の言葉には力がありました。独特のダミ声で語られると、「なるほど、そうだな」と誰もが納得させられてしまうのです。
「自由民主党はね、党員のためにあるんじゃないぞ。国民のためにあるんだぞ。国民のためなら、自民党なんかなくなったっていいんだ」。そう叫ぶと、聴衆は「おおーっ!」と熱狂します。後に小泉純一郎氏が「自民党をぶっ壊す」と言って有名になりましたが、角栄氏の迫力とは桁違いでした。
面白い話も聞きました。大勢の人が集まる場で、相手の名前を忘れてしまった時にどうするか、という角栄氏ならではの対処法です。
普通に「君、誰だっけ?」と聞けば、相手は「やはり先生は私のことなど覚えていないのだな」とがっかりします。そこで角栄氏は、こう切り返すのだそうです。まず、相手が「市岡です」と苗字を名乗ると、すかさず「何言ってんだ、市岡はわかってる。 君の下の名前を聞いてるんだよ!」と返す。相手が「市岡次郎です」とフルネームを答えれば、「そうか、そうか、よく来たな次郎君」と言って、その場で名前を覚え、親しみを込めて呼んであげる。そうすると相手はもう、それだけでファンになってしまうというのです。「人の名前を忘れたときにこうやって訊くとすごくいいんだ」と聞き、「ああ、なるほどな」と深く感心しました。私も顔は覚えていても名前が出てこないことがありますが、角栄氏のようにはなかなか真似はできませんが、確かに相手を不愉快にさせない見事な方法だと教えていただきました。
その角栄氏のお嬢さんである田中眞紀子さんは、何を隠そう、私と同じ早稲田大学の「劇団こだま」の先輩でした。角栄氏は生前、「あの子が男だったら、俺以上の政治家になっただろう」と漏らしていたそうですが、当時から迫力のある先輩でした。
ただ、父君とは少し違うところもありました。一度、私の担当する番組に来ていただいた際、「実は私、先生の大学の劇団の後輩なんです」と打ち明けても、「あらそう」の一言。そこから話が広がるかと思いきや、「それであんたさ、外務省のやり方ひどいと思わない?」と、自分の話に終始するのです。相手への興味がなく、そのことに何のてらいもないのです。
ある時には、「あんたね、この番組、新潟にネットしてないだろ」と指摘され、「それは新潟放送の編成上の問題です」と答えると、「じゃあわかった」と言うやいなや、その場で新潟放送に電話をかけ、「社長出せ」「田中だけど、あんた、なんで私の番組を放送しないんだ」と、すごい剣幕で電話口の相手を問い詰めていました。
その豪腕ぶりはすごいと言えばすごいのですが、「迷惑極まりない」と感じた人もいたかもしれません。父である角栄氏には、どこか愛嬌があり、強引さの中にも愛すべき部分がありましたが、お嬢さんの場合は強引さが際立って見え、敵を多く作ったようにも思います。
角栄氏も敵はいましたが、そのスケールの大きさは誰にも真似できないものでした。「日本列島改造論」は、その後の日本の形を決定づけた、非常に大きな構想だったと今改めて感じます。
「高速道路と新幹線をつないでいって、日本列島、新潟の隅から東京のど真ん中まで、同じように発展させるんだ」。当時は誰もができるはずがないと思っていたそのビジョンを、彼は現実のものとしました。もちろん、その過程で利権が生まれたといった批判はありますが、あれほど大きな構想を打ち上げ、実行した政治家は他にいません。日本がまだ発展途上にあった時代だからこそかもしれませんが、本当に魅力的な人物でした。
出典:首相官邸ホームページ(https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/064.html )


