「答えは現場にある」——昇進を遅らせられた“生意...
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#07「己こそ己の寄る辺」——トップクラスの進学校のエリートに感じた違和感と、少林寺拳法で得た「自己確立」
日覺 昭廣 2026/06/07
東京大学に入学し、日本全国から秀才が集まる環境に身を置いて、私が真っ先に感じたのは「進学校出身のエリートも、大したことはないな」という不遜とも言える直感でした。
日本で一、二を争うような名門校出身の学生たちは、塾や学校で教えられたことを完璧にこなす能力には長けています。しかし、いざ数学などの難問を前にして、自分の頭でゼロから論理を組み立てる力が問われる場面になると、途端に「難しい」「分からない」と立ち止まってしまう人がいるので驚きました。
私からすれば、数学の試験などは制限時間の半分以下の時間で解き終わるのが当たり前でした。周囲が一生懸命に見直しをしている中で、私はある時期から見直しを一切やめてしまいました。見直しとは、結局のところ同じ思考回路で同じ作業を繰り返すだけです。同じ間違いをなぞる可能性が高い以上、そこに時間を割く意味はありません。一度、原理原則に則って論理を積み上げ、正解に辿り着いたのなら、自らの思考を信じて「終わり」にする。こうした自分の判断への絶対的な信頼感は、この頃すでに培われていたように思います。
そんな私の考え方の原点となり、多大な影響を与えたのが、大学2年生から入部した少林寺拳法部での経験でした。
もともと格闘技が好きで、空手をやっていた従兄の影響もあり、身体を鍛えることには関心がありました。私の父は俵3俵(約180キロ)を軽々と担ぐほどの怪力の持ち主でしたし、私自身も極真空手の創始者である大山倍達(おおやま ますたつ)氏に憧れ、親指で100回の腕立て伏せをこなすような強靭な肉体を目指していました。少林寺拳法を選んだのは、単なる格闘技としての強さだけでなく、その理論体系と深い教えに惹かれたからです。
少林寺拳法には「己(おのれ)こそ己の寄る辺(べ)、良く整えし己こそ、まこと得がたき寄る辺なり」という教えがあります。他人に依存するのではなく、自分を磨き上げ、自分自身を頼りとして生きる。それは、「自己確立」と「当事者意識」の精神です。
香川県多度津の本部で開祖・宗道臣(そう どうしん)先生に直接お会いした際、非常に印象的なお話を伺いました。先生は日米関係を引き合いに出し、「日本はアメリカの傘の下で守られているが、言うべきことははっきり言わなければならない。そのためには、まず自分を磨く必要があるんだぞ」と力説されていました。この教えは、後に私がグローバルな経営の舞台で、相手が誰であろうと論理的に自説を貫く際の大きなバックボーンとなりました。
また、武道を通じて学んだ「守・破・離」の考え方は、私の経営哲学そのものです。無意識のうちに体が動くようになるまで、徹底的に基本を繰り返す。まずは基本に忠実であり、それを完璧にマスターして初めて、型を破り、独自の境地へ至ることができる。これはビジネスにおける「実行計画書」の徹底や、現場でのトラブル対応にもそのまま通じる真理です。
大学時代に厳しい練習を共にし、本音でぶつかり合った友人たちは、私にとってかけがえのない財産です。最近は同世代の友人が世を去ることも増え、寂しさを感じることもありますが、彼らと培った「自らの人生を自らの考えで生きる」という覚悟は、今も私の中に鮮明に息づいています。
何かに深く集中し、基本を極め、自分という個を確立する。大学時代のこの鍛錬があったからこそ、私は世の中の時流や他人の評価に惑わされることなく、「あるべき姿」を見据えて歩み続けることができたのだと確信しています。


