「安物」を退けるエンジニアの誇り——異国で貫いた...
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#08「答えは現場にある」——昇進を遅らせられた“生意気な新人”が、泥臭い現場で見たモノづくりの本質
日覺 昭廣 2026/06/08
大学院の修了が近づき、私が選んだ進路は、研究職ではなく民間企業への就職でした。大学院でコンピューターを使った機械工学を専攻していた私が、なぜ「現場」を志したのか。それは、研究室で毎晩徹夜してモニターに向かう生活よりも、実際に自分の手で巨大な設備を作り、動かす最前線に身を置きたいと強く願ったからです。
就職活動では、多くの企業を回りました。実は、当初検討していた鉄鋼業界は、アレルギー性鼻炎を抱えていた私にとって埃っぽさが難点でした。一方、東レの工場は非常にクリーンで、何より「技術の先進性」が群を抜いていました。
当時の産業界には「東洋レーヨン・スタンダード」という膨大な設計指針の分厚い本があり、三菱化成(現・三菱ケミカル)などの他社からも「東レの基準に学びました」と言われるほど、設計や工場のあり方において世界の最先端を走っていたのです。
東レは化学会社ですが、実は歴代の社長に機械工学出身者が多いという特徴があります。なぜなら、世の中にない新しい素材を生み出すためには、それを作るための「設備」そのものもゼロから自社で設計し、作り上げなければならないからです。汎用の機械を買ってきて並べるだけでは、他社との差別化はできません。この「機械と化学の融合」によるモノづくりこそが、東レの強さの源泉なのだと確信し、私は入社を決めました。
はじめに配属された製造現場での毎日は、衝撃の連続でした。そこで目にしたものは、お世辞にもスマートとは言えない、泥臭く、油にまみれた世界でした。当時は設備の完成度がまだ低く、頻繁に故障が起きるのが日常茶飯事でした。しかし、私を本当に驚かせたのは、それを支える現場の職人たちの凄まじい底力です。機械が故障すると、彼らは独自の経験と勘を頼りに、その場で部品を切ったり貼ったりしながら、機械を直して再び動かしてしまうのです。学校では学べない「生きた知恵」が、そこにはありました。私はジーンズを履き、作業着を泥だらけにして彼らの中に飛び込み、一緒に機械を叩き、試行錯誤しながら修理に明け暮れました。
私の信条に、「答えはすべて現場にある」という言葉があります。理屈だけでは動かない現場の現実を、自ら手を動かして体感したことが、私のエンジニアとしての土台を形作りました。
20代後半から10年間を過ごした岐阜工場での日々は、まさに戦場でした。当時はビデオテープの全盛期で、工場の前にはソニーやTDKといったメーカーのトラックが、製品の出荷を待ってずらりと並んでいました。
私たちは、1系列で60億〜70億円もする巨大なフィルム生産ラインを、毎年1台のペースで増設し続けました。半年間で休みが1日しかないような過酷なスケジュールでしたが、苦ではありませんでした。自分の思い描いた通りに巨大な設備を設計し、立ち上げていく。その手応えに、ただただ夢中だったのです。
あまりに仕事に没頭し、上司を無視して独断で進めてしまうこともありました。ある時、同期が次々と昇格する中で、私だけが係長への昇進から漏れたことがありました。不思議に思って課長に尋ねると、「ごめん、忘れていた」と言われ、続けてこう釘を刺されました。「君には問題がある。課長を無視して勝手に物事を決めることだ」と。
確かに当時の私は、自分の信じる「正しいやり方」を貫くため、上司への根回しよりも現場での結果を優先していました。もちろん評価されない悔しさはありました。しかしそれでも、「自分の使命は、この設備を完成させ、新しい価値を生むことだ」という確信が揺らぐことはありませんでした。
私は若い人たちに「好きなことをやれ」と伝えています。ただし、好きなことを通すためには、誰よりも徹底的に調べ上げ、結果に対して全責任を負う覚悟が必要です。自分のためではなく、会社のため、社会のために何が最善か。その「フォア・ザ・カンパニー(For the Company)」の精神さえあれば、一時的に煙たがられたとしても、最後には必ず道は開けます。
現場で機械油にまみれ、現実の壁にぶつかりながら得た確信こそが、私を支える最強の武器となりました。うわべの理論ではなく、現場の事実に基づいた判断。それこそが、激動の時代を生き抜く経営の原点なのです。


