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7/17(木)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/07/11
夏の風物詩として多くの人に親しまれる花火大会。しかし近年、日本三大花火大会のひとつとして名高い「長岡まつり大花火大会」が、増加する来場者数や観覧マナーの悪化により、市民が自由に見られない/運営団体が「無料席はありません」といった広告を打ち出し間接的に規制をかけるなど、かつてない事態が話題となっています。
SNSでは「地元の人が見られないなんて本末転倒」「静かに楽しみたい」という声も多く聞かれました。
こうした状況を見ると、このような長年続く伝統を、なんとか守り続けたいという思いが募ります。
では、そもそも「日本三大花火大会」とは、いつからどのように始まり、なぜこれほど多くの人を惹きつけるのでしょうか?
まず押さえておきたいのが、どの花火大会が「三大」に数えられているのかという点です。広く認識されているのは、以下の3つの大会です。
これらは単なる規模の大きさや知名度だけでなく、長い歴史、花火師たちの技術の粋、地域に根差したストーリー性のすべてが融合した、まさに“日本最高峰”の花火大会なのです。
このように、三大会それぞれが独自の魅力を持ちながらも、日本の花火文化を牽引してきたという共通の役割を果たしています。
「大曲の花火」と聞いて、花火好きの胸が高鳴らないわけがありません。その歴史は明治43年(1910年)、諏訪神社の祭典で催された「奥羽六県煙火共進会」までさかのぼります。
以降、100年以上にわたり、国内最高峰の競技大会として花火師の夢の舞台となってきました。
もし「感動する花火」を探しているなら、長岡の花火は外せません。
その起源は、1945年8月1日の長岡空襲。市街地の8割が焼け野原となり、1,480名以上が犠牲となった悲劇を決して忘れないために、翌年の「長岡復興祭」を経て、戦没者慰霊と復興・平和への祈りを込めて花火が打ち上げられるようになりました。
日本の花火大会は夏が定番ですが、「秋にこそ行くべき」と語られるのが土浦全国花火競技大会です。
その始まりは大正14年(1925年)。霞ヶ浦海軍航空隊の殉職者慰霊と、関東大震災からの復興・経済振興を願い、神龍寺住職が私財を投じて開催しました。
戦後は全国の花火師が集う競技大会へと発展し、今や“スターマイン日本一決定戦”とも称されています。
花火の起源は、古代中国で不老不死の薬を作る“錬丹術”の副産物として火薬が発明されたことに始まります。
日本には戦国時代、火縄銃とともに火薬が伝来。江戸時代には庶民にも花火が広まりました。
慰霊や厄除けの意味を持ち、夏の川開きやお祭りで打ち上げられるようになったのが、今の花火大会の原型です。
明治から昭和にかけて、花火技術は格段に発展。
三大花火大会は、そんな日本の歴史と技術の結晶ともいえる存在です。
どの大会にも、“ここでしか味わえない”と断言できる体験があります。しかしその感動は、観客一人ひとりの思いやりとマナーによって支えられているのです。
伝統は、守られてこそ続きます。
それぞれの花火大会が何十年、あるいは100年を超えて受け継がれてきた背景には、地域の人々の努力と誇りがありました。私たち一人ひとりがルールとマナーを守って楽しむことこそ、次の世代にこの美しい文化を手渡す第一歩です。
今年の夏・秋、ただ花火を“見る”だけでなく、“守る”という意識も、心の中に灯してみませんか?