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    なぜ日本人は牛乳を飲むようになったのか――「けがれ」から国民食へ

    なぜ日本人は牛乳を飲むようになったのか――「けがれ」から国民食へ

    毎朝の食卓や学校給食に当たり前のように並ぶ牛乳。しかし150年前、日本人の多くはそれを「けがれ」とみなし、口にすることを避けていました。

    なぜ私たちは牛乳を日常的に飲むようになったのか――その歩みをたどると、日本の食文化や社会の大きな転換点、そして時代を動かした人々の工夫や情熱が浮かび上がってきます。

    牛乳は「けがれ」だった?――日本人の意識を変えた白い飲み物

    今でこそ栄養豊富な飲み物とされる牛乳ですが、江戸時代の日本人にとってそれは「白き血」「けがれ」と見なされる、触れるのもためらわれる存在でした。

    幕末に来日したドイツ人医師シーボルトは、日本人が宗教上の理由から動物の肉や乳を口にしないこと、特に牛の乳を「不浄」と忌避していたことを記録に残しています。飲むと外国人のような顔つきになる――そんな奇妙な噂が広まっていた時代もあったのです。

    ただし、時代をさかのぼれば、全く口にされていなかったわけではありません。奈良から平安期にかけては、貴族や皇族が薬や滋養強壮のために口にしており、一般庶民とは無縁の“特別な飲み物”でした。飛鳥時代、百済からの渡来人が孝徳天皇に牛乳を献上したという記録も残っています。

    文明開化と牛乳――外国人から始まったミルクブーム

    そんな牛乳が日本社会に広まるきっかけは、幕末の開国でした。横浜などの港町に多くの外国人が居留するようになり、彼らの生活に欠かせないと、需要が高まったのです。

    江戸末期にアメリカ総領事館に赴任したハリスも、どうしても飲みたいと下田奉行所に頼み込んだものの、乳牛がいなかったため、香港から牛を取り寄せるかどうかで大騒ぎになったというエピソードが残っています。

    こうした需要に応えたのが、オランダ人のスネル兄弟でした。彼らは横浜の居留地に搾乳所を開き、外国人向けに販売を始めます。

    この動きに着目したのが、千葉から職を求めてやってきた前田留吉です。外国人の体格の良さに驚いた彼は、「その秘密は牛乳にあるのではないか」と考え、スネル兄弟から搾乳技術を学びました。1866年、日本初の搾乳所を開設し、和牛6頭を飼育してその販売を始めます。この頃は、日常的に飲むというよりも、あくまで薬や滋養源として扱われていました。店頭での量り売りや、ブリキ缶に入れての宅配が始まったのもこの時期ですが、その消費はまだごく一部の上流階級や外国人に限られていました。

    明治天皇が飲んだことで変わった「牛乳観」

    牛乳が日本の一般家庭に浸透するまでには、もう一つ大きな転換点がありました。それは、明治時代の「富国強兵」政策と、明治天皇が愛飲したことです。

    明治維新後、日本政府は国力を高めるために国民の体格向上を目指し、その普及を強力に後押しし始めます。

    明治2年、天皇が吹上御苑で乳しぼりの様子を見学するイベントが開催され、搾乳を担当したのは前田留吉でした。さらに明治4年には、天皇が毎日2回飲むようになり、その様子が新聞や雑誌で報じられます。「天皇が毎日飲んでいる」と知った国民の間で抵抗感が一気に薄れていきました。

    また、明治政府は母乳の代替飲料としても奨励し、量り売りや宅配を通じて一般家庭への販売が進みました。

    「口コミ戦略」と「ミルクホール」――普及のための工夫

    牛乳をより身近にするための様々なプロモーションも繰り広げられました。

    たとえば、奥医師だった松本良順は、遊女や人気歌舞伎役者を使って「口コミ戦略」を展開。吉原の遊女たちの前で、スター俳優の澤村田之助に飲ませ、「これはおいしい」と口にさせることで、評判を広めていきました。

    こうした噂が瞬く間に広がり、「田之さまがおいしいというなら」と多くの人が興味を持つようになったのです。

    また、明治30年代には「ミルクホール」と呼ばれる軽飲食店が登場します。4銭ほどで牛乳とパン、洋食を楽しみながら新聞や雑誌を読めるその文化は、学生や芸者たちの間で人気となり、牛乳をカジュアルに楽しむ新たなブームを生み出しました。

    牛乳ビジネスの拡大――武士から財界人までが参入

    また、牛乳事業は明治維新で俸禄(武士や官吏に支給されていた給与)を失った士族たちの新たな生業として拡大し、いわば“武士の商法”として近代日本の産業化を支える一翼を担いました。

    維新後、士族や旧幕臣たちは牧場経営や搾乳業に続々と参入し、広大な武家屋敷跡を活用して都市部に牧場を開設していきます。

    たとえば、旧幕臣の阪本當晴は赤坂や麹町に牧場を開き、陸軍向けの専売事業にまで成長させました。榎本武揚や松方正義、山県有朋といった明治政府の高官、大名や財界の名士たちも出資や経営に関わり、事業を大きく拡大していきます。

    このように、「武士の商法」として、あるいは失業士族の救済策としても機能しつつ、文明開化の流れとともに都市から地方へと急速に広がっていったのです。

    宅配のはじまり――量り売りからガラス瓶へ

    牛乳の宅配は、明治初頭からすでに始まっていました。初期の宅配は、巨大なブリキ缶を担いで、一軒一軒訪問し、客が出した鍋や器に5勺(約90ml)単位で量り売りするスタイルでした。

    やがて明治20年代からは、ガラス瓶での配達が普及。初期の瓶は色付きで細長い首を持っていましたが、大正時代には王冠栓、昭和には広口の透明瓶が主流となります。

    保存技術や殺菌技術も進化を遂げ、昭和2年には殺菌処理が義務化されました。ブリキ缶からガラス瓶、そして現代ではリターナブル瓶や紙パックと、衛生面や環境面でも容器は大きく進化してきたのです。

    和牛からホルスタインへ――酪農の技術革新

    日本の牛乳生産の歴史を語るうえで、乳牛そのものの変遷も見逃せません。

    前田留吉が最初に手がけたのは和牛でしたが、乳の量が少なく、当時は非常に高価なものでした。明治時代になると、金沢の東方真平や東京の阪本當晴らの手によって、オランダやアメリカからホルスタイン種の乳牛が輸入されます。

    ホルスタインは和牛の5倍もの乳を出すため、安定供給に大きく貢献。こうして、日本の酪農は急速に近代化されていきます。

    栄養食としての再評価

    「乳」は、元来母親が子に与える命をつなぐ飲み物です。人間や動物の乳は、それぞれの子の成長に合わせて最適な成分バランスを持っています。

    とりわけ牛乳にはたんぱく質、脂質、カルシウム、乳糖など、成長や健康維持に必要な栄養素がほぼすべて含まれており、「準完全栄養食品」とも呼ばれています。(※ビタミンCや食物繊維は含まれません)

    明治以降、医学や栄養学の進歩とともに、その健康価値が再評価され、病人の回復や子どもの発育のために積極的な飲用が推奨されるようになりました。

    戦後の学校給食でも取り入れられると、消費量は飛躍的に増加。今や日本人の食卓に欠かせない存在となっています。

    多様化と進化

    現在の牛乳業界は、栄養強化牛乳や加工乳、各種乳飲料、ヨーグルトやチーズなど様々な商品が登場し、消費者の多様なニーズに応えています。宅配システムも進化し、保冷車や専用ボックス、インターネット注文など、より便利で安心して利用できる仕組みが整っています。

    また、瓶やパッケージのリサイクル、品質管理の高度化など、衛生面・環境面でも常に改良が重ねられています。かつて「けがれ」とされた牛乳は、今や日本人の健康と食文化を支える、かけがえのない存在に成長したのです。

    まとめ――知られざる歴史を知り、味わう

    牛乳には、社会を変えた人々の知恵と挑戦が詰まっています。

    その歴史に思いを馳せながら味わう一杯は、きっとこれまでとは違った風味を感じさせてくれるでしょう。日常の中の一杯が、少しだけ豊かに感じられるはずです。

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