
天才策士の覚悟──岩倉具視の生き様が現代に示すも...
10/1(水)
2025年
SHARE
ビジョナリー編集部 2025/10/01
かつて、聖徳太子は日本で最も多くの人々に親しまれた顔でした。一万円札だけでなく、千円札や五千円札にもその肖像が使われ、約40年にわたり、お札の顔として選ばれ続けてきました。1000年以上前の聖徳太子の功績に、現代にも通じる生き方のヒントが見えてきます。
今から1500年ほど前の574年、日本がまだ国としての形をなす途上、厩戸(うまやど)の近くで一人の男児が生まれました。後の聖徳太子です。
父は仏教を大切にしていた用明天皇、母は皇族の血を引く穴穂部間人皇女でした。小さい頃から周りの大人たちが驚くほど賢かったそうです。
ある日、兄弟と遊んでいると、父が「うるさいぞ!」と厳しく叱りました。皆は慌てて逃げましたが、聖徳太子だけは正座して父を見つめ続けました。理由を聞かれると、「空も飛べず、土にも潜れません。ただお叱りを受けるばかりです」と答え、この姿に父も母も感動したそうです。
逃げずに向き合う勇気が、聖徳太子の原点だったのです。
聖徳太子が推古天皇の摂政となったのは、まだ20歳の時でした。日本で最初の女性天皇である推古天皇と一緒に国づくりを始めます。そこで聖徳太子が作ったのが「冠位十二階」という制度です。
当時の日本では、家柄や生まれが全てでした。聖徳太子は、役人を12の位に分けて、それぞれ色の違う冠を与えました。生まれや家柄ではなく、努力や実力で人を選ぶ仕組みです。この制度は、外交においても日本にしっかりした仕組みがあることを示すためにも大切でした。
冠位十二階によって、貴族でなくても出世のチャンスができました。生まれは変えられませんが、努力次第で上を目指せる。聖徳太子のこの考えは、今の会社の人事制度や多様性を大切にする考え方にもつながっています。
聖徳太子が歴史に残したもう一つの大きな仕事が、十七条憲法です。これは法律というより、役人に向けた心構えをまとめたものでした。
とくに有名なのが第一条の「和をもって貴しとなす」という言葉です。聖徳太子は、バラバラになりがちな人たちをまとめるために、争うよりも協力すること、個人の意見よりも皆の和を大事にすることを説きました。現代でも、組織がうまくいくためには協力が不可欠です。様々な意見を大切にしながら、最後は皆で力を合わせる。この考え方も、今の組織運営に生きています。
聖徳太子は海外との関係にも新しい道を切り拓きました。中国大陸の大国「隋」に遣隋使を送り、文化や技術を学ぶだけでなく、日本も対等に付き合うという態度を見せました。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
この手紙は、日本を「日が昇る国」、隋を「日が沈む国」と表現し、対等な立場をはっきり示したものです。大国を前にしても自分の考えを伝える勇気。この姿勢は、今の国際社会で働く人にも通じる大切な力です。
聖徳太子は、仏教との関わりも重視していました。四天王寺や法隆寺など、日本で初めての本格的な寺院を作っただけでなく、自ら経典の注釈書まで書きました。
「世間虚仮、唯仏是真」――この世の名誉や財産はすべて移ろいゆく儚い幸せであり、仏教こそが本当の幸せを教えている、と聖徳太子は説きました。目の前の利益や一時の成功にとらわれず、ぶれない価値観や信念を持つことが大事であると、聖徳太子は見抜いていたのです。
聖徳太子の考え方や行動は、現代の私たちにも多くのヒントを与えてくれます。
職場や学校で悩んだり迷ったりしているなら、聖徳太子の生き方を振り返り、自分自身の状況と置き換えて考えてみてはいかがでしょうか。