
「私は無実のうちに死ぬ」最後まで国民の幸福を願っ...
10/18(土)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/17
戦国時代――「下剋上」の嵐のなかで、名もなき弱小領主から中国地方を制する大大名へと成り上がった武将がいます。その名は毛利元就。「三本の矢」や「百万一心」という言葉に聞き覚えがあるなら、知らず知らずのうちに彼の教えに触れているかもしれません。
彼が波乱の世を生き抜き、後世まで名を残すことになったのか。その生涯をたどってみましょう。
毛利元就が生まれたのは1497年、安芸国(現在の広島県西部)の地方豪族・毛利家の次男としてでした。当時の毛利家は、周囲を大内氏や尼子氏といった巨大勢力に囲まれ、小さな領地を守るのがやっとの弱小一族。そのなかで、幼い元就は早くも大きな試練に直面します。
わずか4歳で母を、10歳で父を失い、家督は兄・興元(おきもと)が継ぎました。しかし、父の死後、家臣に領地を奪われ、城を追われる屈辱も味わいます。このとき元就は「乞食若殿」とまで呼ばれ、貧しく孤独な生活を余儀なくされました。
そんな元就を救ったのが、父の後妻・杉大方(すぎのおおかた)です。彼女は実子ではない元就を、再婚もせずに自ら育て続けました。元就は後年、息子への手紙で「十一歳の孤児であった私を、母は再婚せずに育ててくれた」と感謝の言葉を残しています。
この経験が、後の「家族の絆」や「団結」の思想につながっていきます。
1511年、14歳で元服し「元就」と名乗り始めます。しかし、安寧の時は長く続きませんでした。19歳の時、兄・興元が急死。その跡を継いだのは、まだ2歳の甥・幸松丸(こうしょうまる)。幼子の当主を支えるため、元就が後見人となりますが、毛利家は存続の危機に立たされます。
この隙を突いたのが、近隣の豪族・安芸武田氏。彼らは大軍を率いて、毛利家の同盟家・吉川家の有田城へ攻め寄せました。
ここで元就は、わずか1200~2000の兵で、5000人の安芸武田軍を迎え撃ちます。結果、元就は見事勝利し、敵将・武田元繁(たけだもとしげ)まで討ち取る大金星を挙げました。この「有田中井手の戦い」は、のちに「西国の桶狭間」と呼ばれ、元就の名が一躍広まるきっかけとなりました。
1523年、甥の幸松丸が病死し、元就は27歳で正式に毛利家の家督を継ぎます。
当時の中国地方は、九州から山陽に覇を唱える大内氏と、山陰を支配する尼子氏が激しく争う群雄割拠の時代。毛利家のような小領主は、時に大内氏、時に尼子氏と主君を変えながら生き残りを図っていました。
元就は、まず尼子氏の配下となりますが、その後、巧みに大内氏側へ鞍替え。両者の間でバランスを取りながら、着実に勢力を拡大していきます。
彼が特に重視したのは「同盟」と「養子戦略」でした。息子たちを有力家に養子として送り込むことで、吉川氏、小早川氏といった有力一族と強固な絆を築きます。
こうした連携強化は、後の「毛利両川体制」と呼ばれ、毛利家の安定と拡大の礎となりました。
1540年、尼子氏が三万の大軍を率いて毛利の本拠・郡山城に攻め込んできます。
この圧倒的不利な状況で、元就は援軍を引き寄せ、籠城戦を徹底。さらに、夜の川に千足の草鞋(わらじ)に火を点けて流すという奇策で大軍と錯覚させ、敵を動揺させました。
結果、見事に尼子軍を撃退し、毛利家は安芸国の盟主としての地位を確立します。
また、敵対する大内氏内部に偽情報を流し、「家臣が謀反を企てている」と信じ込ませて内部分裂を誘発させるといった、冷徹な謀略も駆使しました。
1551年、大内氏の当主・義隆が家臣・陶晴賢(すえはるかた)に殺害されると、毛利元就は独立を画策します。
厳島の戦い(1555年)では、わずか4,000の兵で20,000の陶軍を迎え撃ちました。
ここで元就は、敵の油断を誘い、奇襲をしかけることで大勝利を収めます。この勝利を機に、大内氏を滅ぼし、長門・周防まで勢力を拡大しました。
その後も元就は、尼子氏との戦い(月山富田城の戦い)などで兵糧攻めや心理戦を駆使し、ついに中国地方8カ国を制覇します。
この過程で元就が繰り返し語ったのが、「一族団結」の重要性でした。
ある時、3人の息子に1本ずつ矢を渡し「折ってみよ」と命じます。簡単に折れる矢。しかし3本まとめると折れない――「一人では弱いが、三人で力を合わせれば、どんな困難にも打ち勝てる」。
この「三本の矢」の逸話は後の時代の創作とも言われていますが、実際に元就が息子たちに宛てた「三子教訓状」が元になっています。
また、城の拡張工事の際には「百万一心(ひゃくまんいっしん)」と刻んだ石柱を埋めさせました。「百万人が一つの心になれば、何事も成し遂げられる」。この言葉は、今もチームワークや組織運営の理想として語り継がれています。
1571年、75歳でその生涯を閉じる際には、元就は「天下を競望せず」、つまり無謀な天下統一の野心を持たず、地元の安定と家の繁栄を選び続けました。
「毛利家は天下の争いには深入りせず、自分たちの国を守ることに専念しなさい」
これが元就の遺言です。のちに毛利家が江戸時代まで生き残り、幕末の長州藩として歴史を動かす原動力となりました。
戦国の名将というと、冷徹な策略家のイメージが強いかもしれません。しかし、元就は筆まめで家族思いな一面も持っていました。
「兄弟仲良くせよ」「家臣を大切にせよ」「酒はほどほどに」
自らの苦い経験から、家族や家臣への思いやりを手紙で伝え続けたのです。そのため、家臣や領民からの信頼も厚く、カリスマとして慕われました。
彼が大切にしたのは、力による支配ではなく、「知」と「団結」による繁栄でした。
毛利元就の人生は、知恵と人心掌握、そして現実を見据えた判断力に満ちていました。
「一人ひとりの力が集まれば、大きなことを成し遂げられる」
この思想は、現代のビジネスや組織経営にも通じる普遍的な真理です。毛利元就の歩みは、時代を超えて私たちに「団結と知恵の力」を教えてくれています。