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2025

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    三度の奇跡を起こした男――知られざる軍人・樋口季一郎の生涯

    三度の奇跡を起こした男――知られざる軍人・樋口季一郎の生涯

    日本近現代史において、一人の軍人が三度にわたり歴史的な奇跡を起こしたことをご存じでしょうか。その人物こそが樋口季一郎です。

    今回は、樋口季一郎の生涯と彼が成し遂げた「3つの奇跡」を振り返ります。

    小さな島から世界へ――異文化に開かれた青年期

    1888年、淡路島の阿万村(現・南あわじ市)に生まれた樋口季一郎。家業の衰退をきっかけに、学費の安い陸軍幼年学校に進学し、やがて陸軍士官学校、さらに陸軍大学校へと進みます。

    1919年、特務機関員としてロシアのウラジオストクに赴任したのを皮切りに、ハバロフスク、ハルビン、ワルシャワと様々な場所で、見聞と人脈を広げます。当時の陸軍将校は外交官のように世界各国を回っていました。

    まだ有色人種への差別が激しい時代の中、多くのユダヤ人が下宿を貸してくれたこともあり、

    「日本人はユダヤ人に非常に世話になった」

    と、後年樋口は語っています。

    第一次の奇跡:ユダヤ難民2万人を救った決断

    1937年、日独防共協定のもと日本とドイツが急接近し、ナチスのユダヤ人迫害が激化していた時代。樋口は関東軍ハルビン特務機関長に任命され、満洲国の一角で情報活動に従事していました。

    ある日、極東ユダヤ人協会のカウフマン博士が樋口の元を訪れ、「ヨーロッパで迫害を受けているユダヤ人たちがシベリア鉄道経由で満洲国境に押し寄せ、立ち往生している」と訴えました。
    ナチス・ドイツの意向を汲み、日本外務省や満洲国政府はユダヤ難民の入国を認めようとしませんでした。それでも樋口は即断します。

    「日本も満洲も、ドイツの属国ではない。非人道的な政策に従う理由などない」

    自ら失脚を覚悟で、部下たちに「難民を救い出せ」と指示。食料や衣服の手配、特別列車の手配も命じ、オトポール駅に取り残されたユダヤ人たちの通過を認めさせました。この脱出路は「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、後に2万人を超える命を救うことになります。

    ドイツからの抗議に直面した樋口は、上司である東條英機参謀長から問い詰められます。樋口は東條に対して次のように言いました。

    「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることを正しいと思われますか」

    東條はこの主張に耳を傾け、樋口を処罰しませんでした。

    第二の奇跡:アッツ島の悲劇とキスカ島「奇跡の撤退」

    1942年、太平洋戦争が混迷を極める中、樋口は札幌の北部軍司令官に着任します。アリューシャン列島のアッツ島・キスカ島には、日本軍の守備隊が孤立していました。

    翌年5月、アッツ島守備隊は米軍の大規模な上陸作戦に直面します。樋口は大本営に「アッツ・キスカ両島からの撤退、もしくは増援」を強く訴えますが、南方戦線優先の方針により却下されてしまいます。

    アッツ島の守備隊長として赴任していた山崎保代大佐に増援の約束をし自分を信じて戦って欲しいと激励していた樋口は、アッツ島を見捨てる命令に激怒し涙を流します。
    5月21日、樋口は山崎に向けて断腸の思いで電報を打ちました。

    「中央統帥部の決定にて、本官の切望せる救援作戦は現下の状勢では不可能となれり、との結論に達せり。本官の力の及ばざること、誠に遺憾に堪えず、深く陳謝す」

    翌日、山﨑から返信が届きます。

    「戦する身、生死はもとより問題にあらず。守地よりの撤退、将兵の望むところにあらず。戦局全般のため、重要拠点たるこの島を力及ばずして敵手に委ねるに至るとすれば、罪は万死に値すべし。将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」

    5月29日、玉砕の覚悟を決めた山﨑から最後の電文が届きます。

    「敵陸海空の猛攻を受け、第一線両大隊は殆ど壊滅のため、要点の大部を奪取せられ、辛うじて本一日を支ふるに至れり。地区隊は海正面防備兵力を撤し、これ以て本二十九日、攻撃の重点を敵集団地点に向け、敵に最後の鉄槌を下し、これを殲滅、皇軍の真価を発揮せんとす」

    山﨑は300の兵を引き連れて突撃を敢行。奮戦の末に壮烈な戦死を遂げました。戦後の遺骨収集では、日本軍攻撃隊の最も先頭で遺骨・遺品が発見されたのが山﨑だったと言われています。

    アッツ島の玉砕は、日本軍にとって極めて悲劇的な出来事となり、樋口の胸にも深い傷を残しました。しかし、この悲劇を二度と繰り返させてはならない。樋口は海軍と粘り強く交渉し、「世界戦史上の奇跡」と言われたキスカ島守備隊6,000人の撤退を断行します。

    アッツ島の将兵たちの壮絶な戦いから、キスカ島も徹底抗戦するだろうとアメリカ側の警戒を高めていたことも、撤退成功の要因と言われています。

    第三の奇跡:終戦後の「占守島の戦い」

    1945年8月15日、終戦。多くの日本兵は、ようやく訪れた「平和」に安堵し、故郷へ帰る日を夢見ていました。しかし、その2日後、千島列島占守(しゅむしゅ)島にソ連軍が侵攻します。スターリンは北海道を占領し、日本分断を既成事実にしようとしていたのです。

    「宿敵ソ連軍、我に向かって立つ。怒髪天を衝く」
    「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」

    樋口は現地部隊に緊急命令を発します。既に大本営からは「戦闘停止」の指令が出ていましたが、樋口は直感していました。ここでソ連を止めなければ、日本は二つの国に分断されてしまう。

    占守島を守っていた戦車第十一連隊の池田末男連隊長は、つい数時間前まで故郷に帰れることを喜んでいた部下に対して、命令を下さないといけませんでした。

    「われわれは家郷に帰る日を胸に、ひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、ことここに到った。もはや降魔の剣をふるうしかない。そこで皆にあえて問う。皆はいま、赤穂浪士となって、恥を忍んでも将来仇を報じることを選ぶか。それとも白虎隊となり、われわれの命をもって民族の防波堤になるか。赤穂浪士を選ぶ者は一歩前に出よ。白虎隊たらんとする者は手をあげよ」

    悲壮な面持ちで訓示した池田に対し、全員が力強く手を挙げました。池田連隊長は感謝と共に命じます。

    「連隊はこれより、全軍をあげて敵を殲滅せんとす」

    十一という数字が士と読めることから「士魂部隊」と呼ばれた戦車第十一連隊の精鋭達は、ソ連軍に大打撃を与え、北海道侵攻を断念させることに成功しました。ソ連軍の戦死者は約3,000人。日本軍も池田連隊長をはじめとする600人が戦死しました。

    ユダヤ人の恩返し

    終戦後、樋口は軍人から一市民へと戻ります。小樽の漁村で家族と共に慎ましく暮らし、米軍の調査にも「捕虜虐待は一切なかった」と高く評価されました。

    ソ連は「戦犯」として樋口の引き渡しを要求しましたが、この危機を救ったのは、かつて樋口に救われたユダヤ人たちでした。世界ユダヤ協会が「樋口を守れ」とアメリカ国防総省に働きかけ、その要求は退けられたのです。

    樋口は、自室にアッツ島を描いた水彩画を飾り、毎朝これを拝んでいました。愛用の将棋盤の裏には亡くなった兵士を偲ぶ句を記しました。

    「樺太に玉とむれなお輝るやなぎ」(樺太の地で、群れをなして散った多くの兵士たちの上には、今もなお柳の木に朝日が当たって輝いている)

    まとめ

    樋口は「人として大切にすべき人道」を極限状況の中で貫きました。樋口が起こした「3つの奇跡」は、偶然ではなく、信念の積み重ねの結果でした。今こそ、歴史の陰に埋もれた「奇跡の男」の足跡に、耳を傾けてみませんか。

    #日本史#近現代史#太平洋戦争#第二次世界大戦#樋口季一郎#歴史人物#昭和史

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