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梅屋庄吉――アジアの未来を信じた革命支援者の実像
ビジョナリー編集部 2025/11/26
中国近代史において「辛亥革命」を成し遂げた孫文。その陰に、巨額の資金と熱い理想で支え続けた日本人がいたことをご存じでしょうか。今、再び注目される“知られざる偉人”梅屋庄吉の人生を紐解いていきます。
明治の夜明けとともに
1868年、江戸幕府が幕を閉じ、「明治」と名を変えた年。長崎の商家に生を受けた庄吉は、時代の転換点とともに歩み始めます。幼くして養子となった梅屋家は、長崎において貿易業と精米所を営む名家でした。
庄吉は幼少期から抜群の成績と好奇心で知られ、6歳で小学校に入学すると飛び級で10歳にして卒業。卒業旅行と称し、ひとり汽船に乗り込み京都へ旅立つなど、並外れた行動力を発揮します。その姿は、周囲の大人たちを驚かせずにはいられませんでした。
彼の信念は、幼き日に培われた経験と、時代の変化の波の中で磨かれていきました。
世界への扉
14歳の時、庄吉は梅屋商店の持ち船「鶴江丸」に密かに乗り込み、初めての海外・上海へと旅立ちます。現地で目にしたのは、欧米列強による横暴と、それに苦しむ中国の人々の貧しい暮らし。街角には「中国人立入禁止」の看板が立ち、長崎で親しんでいた中国人とはまるで異なる扱いに、庄吉は心を痛めました。
「日本人の友人であり、兄弟である中国が、こんな状態であってはならない」
彼は強烈な怒りとともに、アジア人としての危機感を胸に刻みます。その後、19歳でアメリカへの留学を志し、帆船で大海原を渡るものの、今度は船上でさらに衝撃的な出来事に直面します。中国人労働者がコレラにかかると、船長は彼らを袋詰めにして海へ投げ捨ててしまったのです。
「やつらはアジア人を人間とは考えていない。はらわたが煮えくりかえる思いだった」
この体験は、庄吉の中に「人はみな平等でなければならない」という強い信念を根付かせました。
実業家への道
帰国後、庄吉は家業を継ぐことなく、朝鮮半島への米の輸出で一儲けするも、米相場で失敗し多額の借金を背負うことになりました。失意の中、再び中国へ渡り、放浪の末シンガポールで日本人女性・中村トメ子と出会い、彼女から写真技術を学びます。二人は「梅屋照相館」をシンガポールで開業しますが、うまくいかず、香港へと移転。ここで「出張撮影」という当時斬新なサービスを提供し、大きな成功を収めるのです。
その後、庄吉は映画ビジネスにも乗り出します。明治39年(1906年)、東京で「Mパテー商会」を創業し、映画興行の最先端を走りました。宣伝に力を入れ、会場の装飾やクーポンの導入、音楽隊によるパレードなど、現代にも通じるマーケティング手法を次々と打ち出します。
孫文との出会い
1895年、香港の慈善パーティで、庄吉は運命的な出会いを果たします。中国革命家・孫文との初対面です。2日後、孫文が写真館を訪れた際、二人は熱く自らの信念をぶつけ合います。
庄吉は中国在住の欧米人による横暴、東洋人が受ける屈辱への怒りを訴えました。孫文もまた、
「このままでは、中国は西欧列強に分割され、奴隷にされてしまう。中国と日本は不幸にも戦争をしたが、いまこそ中日両国は団結して中国を植民地化から救わなければならない。中国の4億の民を救い、アジア人の屈辱をそそぎ、世界の人道を回復するには、清朝を打倒して我が国の改革を成就させる以外にない。私達を支援してほしい。それが引いては東洋を守る第一歩ではないか」
と、胸中の熱い思いを語ります。
このとき庄吉は、孫文にこう告げました。
「君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」
それは、互いの信念と理想をかけて結ばれた「盟約」。この日から、二人は運命共同体となり、庄吉は惜しみなく私財を投じて孫文の革命事業を支え続けるのです。
革命の影と友情の証
梅屋庄吉の支援は、武器や弾薬の調達、機関紙の発行、革命志士への援助金、孫文の国外逃亡のための旅費、医療救援隊の派遣、さらには飛行場の建設や飛行機の調達に至るまで、多岐にわたりました。
「辛亥革命」に至る革命運動の過程で、孫文は日本を拠点とし、その生涯の3分の1を日本で過ごしています。庄吉は自邸を提供し、孫文をかくまい続け、精神面でも支えとなりました。犬養毅や宮崎滔天といった日本の要人も孫文の支援に加わりましたが、見返りを求めず、同じ理想を胸に寄り添ったのが梅屋庄吉だったのです。
1913年、辛亥革命後、孫文に庄吉は特別な贈り物を用意しました。それは、蜂起の映像を収めた“たった一人の上映会”。革命の現場にいなかった孫文のため、現地に派遣したカメラマンが撮影した映像を、孫文は何度も繰り返し観たといいます。
また、1915年には孫文と宋慶齢の結婚披露宴が梅屋庄吉邸で盛大に催されました。犬養毅ら多くの政財界の重鎮、革命志士が列席し、梅屋の人脈と信頼の厚さが示されました。
終わらない夢
1925年、孫文が北京で病没した後も、庄吉は孫文の思想と志を後世に伝えるために尽力します。中国各地に孫文の銅像を寄贈し、映画『大孫文』の制作を志すなど、その活動はとどまることを知りませんでした。
「中国の親善 東洋の興隆将又(はたまた)人類の平等に就いて全く所見を同じくし、殊に之が実現の道程として、先ず大中華の革命を遂行せんとする先生の雄図と熱誠は、甚だしく我が壮心を感激せしめ一午の誼(よしみ)遂に固く将来を契(ちか)ふに至る」
これは、庄吉が孫文の墓前で捧げた追悼の辞の一節です。人生の終わりまで、庄吉の信念は一度も揺らぐことはありませんでした。
終幕
1934年、梅屋庄吉は65年の生涯を終えます。翌日の新聞には、「支那革命の恩人 梅屋庄吉翁逝く」「孫文を援けた梅屋翁逝く」などの見出しが踊りました。
庄吉が中国革命に関して語った言葉は、ただ一行。
「支那の革命に際し彼国の志士と交り終始、聊(いささ)か所信に向つて努力せるを信ず。」
その言葉の奥に、壮大な理想と実行力、そして人を思う温かな心が息づいているのです。
今、私たちが学ぶべき“梅屋庄吉”の精神
近年、孫文と梅屋庄吉の友情や彼の功績が再評価されています。民族主義、民権主義、民生主義——孫文が掲げた三民主義の根底には、庄吉が信じた「人はみな平等であるべき」という確固たる思想が共鳴しています。
困っている人には手を差し伸べ、世の中は互いに助け合うものだと信じ、己の財産や時間を惜しまず理想の実現に邁進する。その姿勢は、現代の私たちにも多くの示唆を与えてくれます。


