
野村克也の凄さ!「野村再生工場」と「ID野球」の...
9/9(火)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/09/03
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖において、秋の夜風が鉄路を渡る中、突如として線路が爆破され、轟音が暗闇を切り裂きました。現地に駐屯していた関東軍(満州に駐屯していた日本陸軍)は、即座にこれを「中国軍の仕業である」と宣言しました。翌朝、軍旗を掲げた兵士たちは奉天を制圧し、満州全域を占領下に置きました。
後の証言と戦後の調査で明らかになったのは、この爆破が関東軍自らの仕業であったという衝撃の事実ですが、これが真実であれば自ら仕掛けた謀略によって、軍は中国東北部を手に入れようとしたのです。私たちが、本当の真実とは何かを問うことで他国に信用されなくなる社会にもなれば、日本人としての誇りと尊厳を失いかねない事実にもなるのです。
かくして、翌1932年、満州国が誕生します。かつての清王朝最後の皇帝・溥儀が再び玉座に就き、日本のメディアはこの「理想国家」を華々しく報じました。「五族協和」「王道楽土」といった理念に国民は胸を躍らせ、希望を夢見ます。
しかしその裏では、現地住民の生活は抑圧され、日本人移民も過酷な現実に直面していました。農村の青年たちは「満蒙開拓団」として新天地を目指して旅立ち、都会の若者は軍需工場や徴兵で国家の歯車に。戦争は、知らぬ間に生活のすぐそばまで忍び寄っていたのです。
これを受け、国際社会も黙ってはいませんでした。リットン調査団は現地を視察し、日本の行動を「侵略に近い」と断じ、国際連盟は満州国を承認せず、日本軍の撤退を勧告しました。しかし、日本はこれに反発し、連盟の脱退を決断します。そして、国際社会からの孤立への道を歩み始めたのです。
当時の国内の空気は、戦争への熱狂に満ちていました。新聞やラジオは連日「快進撃」を伝え、「満州は日本の生命線」「戦うことは国の誇り」と語りかけ、教育現場では、「国家のために命を捧げること」が、美徳として教え込まれました。日常生活の隅々にまで、戦争の空気が染み渡っていったのです。
こうした社会情勢の中で政府の力は弱体化し、軍の独走が加速します。1932年の五・一五事件、1936年の二・二六事件。青年将校たちによるクーデターは、国家の運命を揺るがす事件となりました。議会制民主主義は力を失い、軍部が国家の進路を決定する時代へと突入していきます。
そして1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)。夏の夜空に突如、銃声が響き渡りました。誤射か挑発か、原因は今も定かではありません。しかし、一発の銃声が、日本と中国、そして世界を巻き込む運命の扉を開くこととなります。日本軍は即座に応戦し、戦線は上海、南京へと拡大しました。偶発の衝突は、やがて全面戦争へと変貌していきます。
日本の新聞はこの戦争を「聖戦」と呼び、国全土を挙げた総力戦体制を敷いていきます。都市の工場は軍需一色に染まり、農村では兵士を送り出した家族が互いに励まし合いました。子どもたちは学校で銃後の守りを学び、少女たちは兵士に千人針や慰問袋を送りました。国民一人ひとりが、戦争の波に巻き込まれていったのです。
こうして柳条湖の爆発音から盧溝橋の銃声まで、わずか6年の間に、日本の状況は激変しました。国際的孤立、軍部の台頭、国民の熱狂――三つの流れが絡み合い、日本は戦争への坂道を駆け下りていったのです。
特に現代を生きる私たちが注目すべきなのは、国民も領土の拡大と戦争を望んだ側面があるという部分ではないでしょうか。持たざる国である日本は、それまでに圧倒的に不利だと言われた中で多くの命の犠牲を払い、日露戦争を勝利し、満州で利権を得ました。現代を生きる私たちが教えられた戦争は、辛い部分や、暗い側面が強調されがちですが、実際には戦争を行い、勝てば実利と高揚感を得られることを多くの国民が感じたことは事実です。軍部が国内で力をつけ、クーデターを決行したことに対しても、メディアが称賛し、多くの人が好意的に見ていたということも分かっています。
軍部が一方的に戦争を推し進め、国民は騙されて従った――そのような単純な構図ではありません。新聞は軍部の行動を称え、雑誌は戦場での活躍を英雄物語のように描きました。街角のカフェでは、若い学生たちが「次はもっと広い大陸に進むべきだ」と議論を交わしていた、という記録もあります。総力戦の時代、国民の支持なしに戦争を遂行することは不可能でした。戦争は「国策」であると同時に、「国民の選択」でもあったのです。
確かに私たちは戦後教育によって、戦争がどんな悲劇を生み出すかということを知っています。それは、先の大戦を体験された方々が、自らの辛苦を語り継いでくださったからです。しかし、平和を望む心は、教育だけで形成されたわけではありません。高度経済成長を経て、日本は世界有数の豊かさを手にしました。もはや国が滅びるかもしれないという不安に苛まれることもなくなりました。しかし、世界を見ると日本のGDPランキングは下降の一途を辿り、空前の円安による国際競争力の低下など、決して楽観視できない状況であることが現実です。今日の日本人は、高度成長期を創り上げた世代の人たちの功績によって、平和を享受しているのです。だからこそ、今ある平和に甘んじるのではなく、私たち自身が日本の国力を上げていくよう、経済成長を担っていかねばならないのです。
そして、平和を望み続ける人間であるためには、『人間は時に欲望や恐怖に突き動かされ、暴力に訴え、他者を支配しようとする存在である』ということも、忘れてはなりません。だからこそ私たちは、時代を超えて戦争の遺産を見つめ直し続ける必要があります。