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9/9(火)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/09/02
「さきの戦争」は、どんな経緯でいつからはじまったのか。
歴史が残した史実に基けば、「満州事変から」と区切る人もいれば、ペリーが黒船で来航した瞬間から日本社会での異国との戦いは始まっていたと考える方もいると思います。
その真実は一つではありません。 当時の世界観を感じる日本の識者は、近代国家を急いだ明治の歩みには凄まじい勢いがあったと考えられています。欧米列強に追いつこうとする野心、経済苦境や政治混乱、軍部の派閥による対立――その積み重ねが、戦争への坂道を形づくっていったのです。
その転機の一つが、第一次世界大戦(1914-1918年)でした。これはそれまでの戦争とはまったく異なり、世界各国が戦火へと巻き込まれる「総力戦」の時代へと突入していました。資源の乏しい日本にとって、この現実は、将来に暗い影を落とすものとなるのです。
しかし、日英同盟を背景に連合国側として参戦した日本は、戦勝国となり、パリ講和会議では国際連盟の常任理事国という、国際社会における主要な地位を獲得しましした。
国内では、戦火を免れた日本経済がヨーロッパの疲弊を尻目に急成長し、空前の「大戦景気」に沸き立ちました。三井や三菱などの財閥は巨額の利益を上げ、「成金」と呼ばれる新興富裕層が誕生。日本は一見、順風満帆な繁栄を謳歌しているかに見えましたが、この繁栄は長くは続きませんでした。
第一次世界大戦後、ヨーロッパ経済が復活すると、日本の輸出は激減。1920年には「戦後恐慌」が起こります。さらに1923年の関東大震災、1927年の金融恐慌、そして1929年の世界恐慌が追い打ちをかけ、日本経済は奈落へと突き落とされていきます。
さらに、経済的苦境だけでなく、日本は国際社会における「孤立感」にも直面していました。
パリ講和会議で、日本代表団を率いた外交官・牧野伸顕は胸を張り、「人種平等案」を提案しました。 これは、人種差別を撤廃し、世界中の人々が平等であることを国際連盟の規約に明記しようとする、画期的な試みでした。
しかし、この提案はアメリカやオーストラリアの強い反対により否決されます。
「やはり、西洋は我々を対等には見ていないのか――」
このことが日本に深い失望を広め、日本人の心に孤立の種を植え付けることとなります。
出口の見えない不安の中で、人々の視線が向かったのが、「満州」でした。 石炭や鉄鉱石といった豊富な資源を有する満州は、日本の経済的苦境を救う「生命線」と見なされました。
陸軍の石原莞爾は「満州を確保すれば日本の未来は安泰だ」と主張し、外務官僚たちも同じ認識を共有していました。
しかし、この道は中国の反発と国際連盟からの非難を招き、日本を国際社会からさらに孤立へと追い込んでいきます。
かくして、悲劇の火蓋は切って落とされたのです。
戦争とは、決して一つの要因で始まるものではありません。 経済的な苦境、国際社会からの孤立、そしてそれに乗じて台頭する軍部の主張が絡み合い、社会全体の「空気」が作られ、国民は一つの方向へと駆り立てられていきました。そして、気づけば後戻りできない道を選択してしまったのです。
このような日本の暗黒の歴史は、重要な教訓を私たちに教えてくれています。
一つは、対話を通じて他国との信頼関係を築く重要性です。当時、日本が対話の努力を怠り、孤立の道を選んだことが、後の悲劇を招く一因となりました。国際社会は、相互理解と協力を通じて共通の価値観を見出すことで成り立っており、それが平和の礎となるのです。
また、経済的苦境がナショナリズムを煽り、戦争の引き金となりえるということです。だからこそ、経済の安定と成長を追求することが、平和の維持にとって不可欠なのです。また、国家間の経済的な結びつきを強めることで、対立よりも協力する方が利益になることを理解することが、紛争回避のためには重要です。
かつて、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルは言いました。
「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」。
チャーチルは勇猛な政治家であり、戦争の回顧録でノーベル文学賞を与えられる才に恵まれる人物としても有名です。
民主主義は複雑な問題があるが、これに勝る政治の形はない、というこの言葉。民主主義における、公平な議論を進める手順の面倒さ。少数派の意見を大切にする心くばり。多数派が何ごとも数の力で押し通す危険、民主主義の土台をつくるのは複雑でもあります。慎重に、互いに尊重した対話の結論となるべきことですが、戦争の結論は武力の行使という結論に進めてはいけないということです。
それ故に、この言葉からも時に「空気」に流されやすい民主主義の危うさを示唆することとなります。
私たちにできることは、いかなる状況下にあっても戦争という手段によらない解決を模索し、対話を深め、互いに知恵を絞り合うことではないでしょうか。