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9/9(火)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/09/09
1937年から始まった戦争は、日本を全体主義という名の巨大な渦へと呑み込んでいきました。1940年には、国民全体が政府の方針に一致団結して従う新体制を作るため、すべての政党が解散し、「大政翼賛会」へと統合されました。これにより日本は実質的に一党独裁に近い体制となります。町内会や隣組、産業報国会や婦人団体など、国民生活に根差した組織が大政翼賛会へと組み込まれ、政府の方針は迅速に、隅々にまで届けられました。
そして、「一億一心」や「贅沢は敵だ」といったスローガンが国民の思考を麻痺させ、集団の論理に無批判で同調する空気が蔓延していきました。また、多くの文化人はプロパガンダの担い手となり、戦争を「英雄的で美しいもの」として描きました。作家の菊池寛や詩人の佐藤春夫、小説家の横山利一などが戦争賛美の言説を広め、横山大観や藤田嗣治といった美術界の大家も戦争画を描くなど、戦争への熱狂を煽る役割を担っていったのです。
彼らを突き動かしたものは、単なる圧力や恐怖だけでなく、「日本文化を守りたい」「西洋列強に負けてはならない」という、純粋な愛国心や使命感でした。しかし、戦後彼らの中には自らの行動を後悔し、自責の念を抱く者もいました。武者小路実篤は戦後、自身の戦争協力について自己批判を行い、「私にも反省すべき点は多々ある」と述べています。
また、『葉隠』のような過去の作品も、戦時下には都合よく解釈され、プロパガンダとして利用されました。この作品は、18世紀の江戸時代に武士の精神書として執筆され、その内容は、現代のように戦もなく平和な時代において、どのように武士が静かな覚悟をもって生きるべきかを説いたものでした。しかし戦時下においては、この書にある「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一節だけが切り取られ、集団的な玉砕や無謀な突撃を推奨する思想として利用されていったのです。
島国で、豊かな自然に囲まれた日本は、長い歴史の中で外国からの侵略も少なく、他国でみられるような言語を奪われる体験や民族浄化など、文化を壊滅的に破壊されるという経験をせず、豊かな文化を育んできました。しかし、明治維新以降はグローバリズムの波に呑まれ、「日本を外国から守らなければならない」という危機感が強まっていきました。特に、文化の担い手である作家や画家、学者といった文化人・有識者たちは、「我々の文化を守る」「世界に日本の精神を示す」といった大義を掲げ、創作活動に意欲を燃やしました。しかし、それが組織や社会に迎合してしまう結果となり、悲劇は生み出されていったのです。
この歴史から私たちが学ぶことは、SNSやインターネットなど情報が溢れる現代において、断片的な情報や強い主張に流されず、全体像を把握し、多角的な視点を持つ努力が必要である、ということです。組織や企業においても、企業理念や組織文化を守ろうとするあまり、大義がその本質を見失っていないかを常に見つめ直すことが大切です。また、個々人が場の空気を壊したくないがために、意見を述べたり批判したりすることを避けると、倫理を逸脱した考えが蔓延することを許してしまいます。
一人ひとりが、組織や任された事柄に真剣に向き合い、意見を発信し、異なる考えを相互に受け止め、対話を重ねてよりよい方向へと歩むことが、社会を平和に導く鍵となるのではないでしょうか。