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2025

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    独立と創業 ゼロからの出発

    #06独立と創業 ゼロからの出発

    原石からダイヤへ

     独立にあたっては、会社の人たちから大反対された。個人が独立して会社を作ることが特別ではない現代とは違い、さまざまに目を掛け世話をしてきた人物から見れば、タブー視される行動だった。

     社長は、私を気に入ってくださっていたと感じている。経理などの勉強をさせてもらえたのも、将来への期待があったからだろう。それなのに独立すると言い出したものだから、「反旗を翻したければするがいい」と言われるのも、当然ではあった。加えて、私の妻となる女性も同じ会社に勤めており、揃って出ていくと表明したものだから、会社には裏切り行為と映ってしまったのである。25歳で独立し、その後3年間はさまざまな妨害を毎日のように受けることとなった。仕入れ先も販売先も、裏で手を回されてすべてシャットアウト、相手にされなかった。今の時代では起こりえないだろうが、そんなドラマのような話が当時は実際にあったのである。

     さらに、原宿で会社を立ち上げること自体が想像以上に困難なことだった。今では信じられないだろうが、竹下通りは数件の喫茶店を除けばほぼ住宅地であった。つまりは文教地区であり、50㎡を超える敷地の事業体を作ってはならず、その場所に居住する場合は、風呂場などの設置や生活実態がないと許可が下りなかった(竹下通りが近隣商業地域に指定されたのも近年になってからのことだ)。緑が多くて環境がよくて、こんなところに住めて会社もあったら最高だなと思っても、現実は厳しかった。「なんでこんなところに会社を建てたのか」と言われたこともあった。

     原宿に来て、縁もゆかりもないところに一軒家を借りて、住まい・会社・事務所・倉庫も兼ねた形で、狭いながらも事業をスタート。地域からも業界からも相手にされず、金もなければ人脈もなく、仕入れ先も販売先もない。当時、25歳だった私は現実をよく理解していなかった。「やめたほうがいいんじゃないか」「子供もいるんだから、安定した勤めでもしたほうがいいんじゃないか」と言われたこともあった。

     実際、売り上げもほとんど上がらなかった。しかし、私はもともと負けず嫌いなので、とにかく販売先や工場には誠意を見せて頑張った。ほとんど毎日、仕入れ先などに直接出向いた。都内23区内で回れるだけのところを回り、それが終わってから工場に来てフィードバックを伝えた。そのようなことを続けていると、「そこまで一生懸命やっているんだったら応援しようか」という人が少しずつ出始めてきた。前の会社のやり方をあまりよく思っていなく、私のほうに仕事を回してくれる人も出てきた。

     3年間、苦しいことばかりでもなかった。そういった人たちとの出会いがあって未来が拓けた。最初のガードは固いが、気持ちが通じたときには大挙して助けが押し寄せることも世の中にはある。そのように人生を振り返ると、誠意や前向きな姿勢は人の心を動かすものなのだな、とつくづく実感するのである。

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