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2025

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    若き日の原宿 新天地での挑戦

    #05若き日の原宿 新天地での挑戦

    原石からダイヤへ

     独立して事業を興したいという思いは、東京に出た当初から抱いていたものだった。

     だから最初から遊んで散財することもしなかった。寮費を天引きされて自分の懐に入る3,000円~4,000円の給料はずっと貯金に回していた。昔から種銭(たねせん)といわれるが、お金の種をじっくり育てると、仲間―つまり、お金― を呼び込んできてくれるのだ。だから何かチャンスがあったら挑戦できるように、元手となる資金はコツコツと貯めていた。

     働きながらニット製品のデザインや生産について、また経理について学ぶうち、独立をしたいという思いが募った。ではどこでどういう形で事業を起こすのか、それが問題だった。上野駅や東京駅の近辺で営業をしながら考えていたところ、一つの転機が訪れた。渋谷の東急百貨店を営業先として開拓し、表参道に行ったときのことだ。

     青山通りが現在のように拡張されたのは1964年の東京オリンピックの頃のことで、それまでは都電が走る一車線の通りだった。そして、三宅坂を起点に、赤坂見附から渋谷まで通るあの青山通りを上るのは、都内で最大の難所だった。営業でこの辺りを通って表参道の並木道が美しいと思い、休みの日にじっくりと散策してみた。東郷神社があったり、明治神宮があったりと、緑の多い閑静な環境に私はすっかり魅了されてしまった。近辺には大使館が多く、外国人も往来しおしゃれな雰囲気もあった。

     もし可能であればこんなところに住みたい、会社を作るのならこういう場所に設立したいと強く思うようになった。

     さらに、事業を興すのならばこの地で、と願った背景には、別の思惑もあった。当時は、浅草橋からほど近く、ファッションの中心地として栄えていた東日本橋が当時の経済の中心だった。渋谷や新宿よりもずっと栄えており、お金も商品も動くその地に私も働いていたのだが、こんな混み合ったところで事業を興したら将来的に埋没するのではないかという危惧があった。そのような考えに至ったのは、若い頃の苦労を通して事業を慎重に始めたいという価値観が養われていたからだろう。原宿には縁もゆかりもなかったが、だからこそニット企業が乱立する台東区や墨田区などではなく、誰もいないこの地で会社を設立したいと願った。

     今思えば、独立して会社を作るのは実はそれほど難しいことではない。それよりも困難なのは、いかに事業を続けていくかということだ。特にファッション業界では若くして事業が当たると、みんな有頂天になって遊んでしまったり、分不相応な事業展開をしてしまったりする者が多い。ファッション業界の経営者の大半が、そんなふうにして自らのキャリアを棒に振ってしまうのを見てきた。

     しかし当時は、会社を作ること自体がタブー視されていた時代でもあった。入社7年目で退職を決めた私の前にも、さまざまな困難が立ちはだかることとなる。

    #ジム#八木原保#ニット業界#経営#ファッション業界#ニットメーカー
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