
ブランド「GIM」の立ち上げ 個性派商品への挑戦
5/22(木)
2025年
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八木原 保 2025/05/08
原宿に出てきて3年間は非常に苦労したが、やり続けた結果、徐々に応援してくださる方が増え、事業が軌道に乗り始めた。
そこには、ある社会の変化が関係していた。株式会社ヴァンヂャケットでVANを展開していたデザイナーの石津謙介氏が、日本にアイビールックを持ち込んできたのだ。アイビールックとは、1950年代にアメリカで生まれ、60年代に日本で独自の文化として発展したファッションスタイルである。アメリカの大学で流行っていた裏毛のトレーナーやパーカーなどが日本で流行したことで、ファッション業界の流れが一変した。寒いから厚着をする、暑いから涼しい服を着る、という実用品としての日本の服飾が、一気にファッション文化として花開いたのである。それまでの日本は着物文化が主流であり、その他の服装といえば学生服か作業着のようなものが大半だった。洋服はシンボル的な存在で、高くて買えないものとみなされていたが、その流れが大きく変わっていった。
その流れに乗り、私も海外からさまざまなものを吸収しようとした。創業して3年目くらいから、アメリカとヨーロッパに旅をして勉強やマーケットリサーチを重ねた。最初は現地でガイドもつけていたが、やはり自分で回らなければ意味がないと考え、言葉など全く話せなかったが、一人旅をするようになった。その成果は、すぐに売り上げに反映されることとなるが、その話は次回で詳しく語ることにする。
この頃から、原宿の街の様子も変わってきた。
それまで原宿は、閑静な住宅街だった。竹下通りには民家が並び、明治通りにも銭湯や瀬戸物屋、自転車屋、草履屋もあり、まさに「下町」といった風情だった。創業当初、「なぜこの町で会社を作ろうなどと思ったのか」と言われたのは先にも述べた通りだ。しかし一方で、どこか異国情緒のある町でもあった。代々木公園には米軍キャンプ地があったため、表参道には米軍の将校さんたちがお土産を買う土産物屋があった。それがあの原宿オリエンタルバザーやキデイランドだったのだ。またこの界隈の喫茶店の中には、マスコミ関係者が集まるサロンのような場所もあった。米軍関係者など特別な人々を対象とした施設を元とする原宿セントラルアパートの1階にあった喫茶「レオン」には、浅井愼平氏をはじめとしたクリエイターや若者が集った。
そんな界隈が、若者の街となった。昭和45(1970)年頃から、表参道の歩行者天国が始まった。そこでは自由に歌って踊れるというので、若い人たちが集まりはじめた。竹下通りにはタレントショップやユニークなブティックが立ち並ぶようになり、そこから服を調達して歩行者天国でパフォーマンスする竹の子族などの新しいカルチャーが花開いた。ここから竹下通りは、“KAWAII”文化を作る場所としての発展を進めていくこととなる。
そして1978(昭和53)年には、この地に急速に芽生えたファッション需要を取り込もうと、ラフォーレ原宿がオープンした。もっとも当時は、ファッション主導のデパートとしてすでに丸井やパルコが先行しており、後塵を拝した彼らは売り上げが伸び悩んだ。その経営を立て直し、流行の発信地とする事業に私が携わるのは、そこからもう少し先の話である。