
浅草橋での丁稚奉公 ニットとの出会い
5/22(木)
2025年
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八木原 保 2025/05/02
私は1940年、埼玉県行田市の農家に生まれた。
私が5歳のころの昭和20(1945)年に、日本は終戦を迎えた。当時の日本には食べるものが本当になかったことを、幼少期の記憶として覚えている。東京から買い出しの人が家にやってきて、財布からお金を出し「何でもいいから売ってくれ」という光景を見てきた。おそらくは闇市の商売人だろう。戦後の混乱期で、東京は焼け野原で何もない。食べられるものだったら何でも売っているという戦後の悲惨な生活の中、農家に生まれ育ったことは恵まれていたと幼心に思っていた。
6人兄弟の4番目。小学校、中学校は9年間無遅刻無欠勤で通った。戦後、どこにも物がない時代から、年々日本が劇的に変わってゆき、世の中が進歩していった。その勢いに影響されるように、私は負けず嫌いな性格で、がむしゃらに駆け抜ける少年時代を送った。
高校は、埼玉県の名門校・熊谷農業高校に進学した。農家だったため、兄弟も皆そこに通い農業関係の仕事に関わるようになっていた。当時の農家というものは、長男が後を継ぎ、次男や三男は養子に行くか農業関係の仕事をするという進路を辿るのが通例であった。私の一つ上の兄は、農業高校を出て就職したのち勤め先を辞めて、埼玉大学に入って教員となり、福祉の仕事にも携わるうちに業界内で出世し、旭日双光賞を受賞した。
しかし、私の中には別の願いが生まれていた。社会がどんどん発達し、新聞やラジオからは日々新しいものが生まれていく情報が入ってくる。そのうちに、「こんな田舎でせっかくの一生を過ごしていいのか。目まぐるしく変化する世の中で自分ができることにチャレンジをした方がいいのではないか」と考えるようになったのだ。
そして高校3年生になる少し前、先生にお願いをした。
「とにかく東京に行って働きたいので、どこかいいところを紹介していただけないか」と。そして就職担当の先生から、学校の先輩が2人、東京の会社にいるので、行ってみてはどうかと紹介をいただいた。当時は何の知識もなかったが、とにかく東京へ出ようという気持ちだけで、その会社に入ることに決めた。
兄弟も多く、親はそれぞれ自分のやりたいことをやればよいというスタンスだったので、東京行きに関して家族から反対は受けなかった。とにかく入れるところならばどこでも良い。不安はあるにはあったが、東京に行って勉強し、一旗揚げたいという気持ちの方が強かった。
そして私は18歳で東京に上京を果たし、浅草橋のニット会社に就職をしたのである。