
経理とファッション 右手はペン、左手はそろばん
5/22(木)
2025年
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八木原 保 2025/05/03
当時浅草橋ではニット業が盛んで、数十軒も軒を連ねていた。つまりこの辺りは当時ファッションを生み出す中枢でもあったのだ。だが、私が住み込みで入社したニット会社は、とんでもない環境だった。東京で一旗揚げたいと夢見て浅草橋へやってきた私を待っていたのは、地獄のような激務だった。
当時、ファッション業界は転換期を迎えており、ニット製品の需要が高まっていた。私は脇目も振らず、与えられた仕事をひたすら懸命に取り組む日々を送った。朝起きてから夜寝るまで、掃除や雑務、社長の靴磨きなども含めて多岐にわたる仕事をこなす。休みなど、月に一回あるかどうかというくらい。女中の男版のような感じで、朝昼晩ずっと過ごしていた。がむしゃらに頑張るつもりで東京に出てきた私だったが、丁稚奉公の厳しさは私の想像を超えていた。
もう自分の意思などはない。どうやったら社長に認めてもらえるか、可愛がってもらえるか。そんなことばかりを考えながら仕事をしていたように思う。社長は優しい性格の方だったが、仕事にも生活においても厳しく、とりわけ社員が今何をしているか、仕事を細かく見る厳格さを持っていた。
また厳しかったのは、当時の住み込みの環境もしかりだ。今でいう寮などなく、職場と同じところで寝泊まりをするのだ。会社の中にある商品を片付けて寝床を作り、そこで体を休めるような生活であった。当然あの頃の住環境には、ダニやノミがたくさんいて、寝床はお世辞にも清潔とは言えなかった。そんなところに住み込みの人が7、8名。朝昼晩の食事はさせてもらったが、当時いただいていた7,000円か7,500円の給料のうち4,000円くらいは寮費として天引きされる。そして残った3,000円から3,500円くらいの中から税金を払っていくような生活だ。とはいえ行くところもないので、そこで働くよりほかはない。転職などの選択肢はなく、田舎に帰るか、その職場で続けるかという選択しかなかったと思う。
そのような環境で、私は6年間を過ごした。救いだったのは、社長自身が埼玉県の深谷市出身であり、社員にも埼玉県出身の人物が多く、同郷のよしみで助け合いながら仲良く過ごすことができたことである。しかし、このような厳しい環境で訓練されたことが自身の心身を鍛えてくれ、その後の人生で大いに役に立ったと感じている。会社に住み込みで朝も昼もなく働く中で、社会とは、会社の経営とはこうも厳しいものなのだということを、身を以て体感し、骨の髄までしみじみと理解することができた。
6年間の丁稚小僧時代に身につけたことは、その後の人生にも財産となった。どれだけ苦しいことがあっても、あれ以上に苦しいことはない。自分はもっと苦しい時代を乗り越えることができたのだという自信が、今日までの私の歩みを支えてくれたと思う。その後の人生ではいろいろな出自の方々と出会ったが、あのような生活を経験した人たちというのは非常に少なかった。どん底の生活とその心境は、体験した人でなければやはりわからない。今にして、そう思うのである。