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2025

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    アメリカへの憧れ――テレビやラジオの向こう側に夢中だった

    #05アメリカへの憧れ――テレビやラジオの向こう側に夢中だった

    原石からダイヤへ

     僕が小学校に入った頃には、貧しかった我が家も人並みの家庭になっていました。小学校から思春期の頃に至るまで、周りは頭の良い生徒ばかりだったと記憶しています。小学、中学、高校と東京教育大学(現・筑波大学)の附属校に進学するのですが、そのたびに成績のランクが落ちていきました。なぜかというと、どんどん頭の良い生徒が外部からも入ってくるためです。

     小学1年生から3年生までは、松本先生という図工の先生が担任でした。その先生がものすごくスポーツを重視する先生で、さまざまなことをやりました。相撲や縄跳び、かけっこなど。そして「自分たちのクラスは一番にならなければいけない」と常々おっしゃっており、スパルタな先生でした。

     進学校でしたので、他の生徒はとても優秀でした。授業を受けなくとも勉強ができる、という生徒が多くいました。僕は授業を受けてもできなかったのに、そんな生徒たちと同じようにスポーツをして遊び回っていました。

     小学校のときはませた子で、僕らの世代はみんなそうですが、アメリカに憧れました。それは、初めてテレビが来たときに、放映される番組がアメリカのものが多かったためです。ディズニーや、コンバット、アメリカのホームドラマといった具合です。

     僕たちは、まだガラガラっと開ける引き戸の玄関の家に住んでいる時代に、アメリカの生活というのを目の当たりにしたのです。青い芝生の上に白い家が建っていて、アメ車とGE(ゼネラル・エレクトリック社)の冷蔵庫があって、庭には映画『名犬ラッシー』のような大型犬が走っているような優雅な生活。日本には犬といえばまだ雑種かスピッツくらいしかおらず、大型犬などいない時代でした。

     そういったアメリカ文化の洗脳を受けていました。でも、オシャレをしたくともそういうものがない。体も小さかった。だから、父のワイシャツなどを自分でカットして着てみるなど、そういうことをして色気づいていました。

     そして中学校に入ると、これもアメリカ文化への憧れから、洋楽に目覚めたり、洋画に興味を持ち始めたりしました。小学校の時は、祖母に連れられて邦画の時代劇やゴジラを観たりしていましたが、中学校になると、友だちと映画へ行くようになるので、洋画を観るようになっていきました。

     同じクラスの頭の良い子は、FEN(現・AFN)、当時は進駐軍放送と呼ばれていましたが、英語で流れるラジオ放送を聴いていました。彼らは前日に流れたビルボードのトップ10をメモしていて、次の日に友だちと語り合っていました。僕は彼らからそういう話を聞いてもよくわからない。だけど、「ビートルズだけはいいよね」と返事をしたりしていました。とにかく、アメリカの影響を強く受けていたのです。

    #ビームス#BEAMS#設楽洋#タラちゃん#経営#ファッション業界
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