
アメリカへの憧れ――テレビやラジオの向こう側に夢...
6/13(金)
2025年
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設楽 洋 2025/06/04
僕は知りませんでしたが、父が商売を始めた頃の最初のお得意先は、ロッテでした。ロッテは当時、新大久保に工場がありましたが、父によると、戦後ロッテの社長がリアカーを引いて、ガムの素を詰めて売り歩いていたのだそうです。僕の生まれた頃の戦後というのは、そういう時代だったのだな、と思いました。
新宿の市場の前に小さな設楽家があり、その隣に小さな工場があったのは前にも述べましたが、ある時、新宿区の区画整理で道路が広くなる代わりに、少し工場の敷地がカットされました。そのために工場が稼働しづらくなってしまったのです。
すると父は、その新しい道路に掘っ立て小屋を建て自社工場にしてしまいました。僕にもうっすらとその記憶がありましたが、「そんなわけないよな」と記憶から消していたのですが、改めて父に聞くと「その通りだ」という返事でした。
父は、新宿区に「区がうちの土地をカットして道路を広くしたせいで、こちらは商売ができなくなっているんだ」と抗議し、勝手に公道に小屋を建てたのです。それがまかり通るような時代だったのかもしれません。
そんな感じで、父は豪放磊落(ごうほうらいらく)な人間でした。ワンマンで、思ったことはどんどん事を進めるタイプです。石橋が崩れる前に走って渡ってしまう。母は逆に、石橋を叩いても渡らないタイプでした。そんな2人ですから、しょっちゅう喧嘩はしていました。その両親から育てられたので、僕はその両面を持っているのだと思います。
僕の、創意工夫が好きで、直感派なところは父に近いと思います。母は、いい意味でものすごく正義感が強くて、まっすぐで、危険なところには絶対近づかない、という性格でした。ただ、そのことをコンプレックスにも感じていたようでした。だから僕は幼少期から、「あなたは男だからそれではいけない。大物になるには、それではいけない」と言われていました。
母は、新潟出身で、田中角栄首相が大好きだった。だから、「あのようにならなければいけない。『清濁併せ吞む』のが男だ」と。「私はそうなれないけど、あなたは男なんだから、『清濁併せ吞む』ようになりなさい」と言われて育てられました。しかし、ちょっと悪いことをすると、母からはこっぴどく怒られました。「『清濁併せ吞む』って言ってたじゃないか」と、幼心に少し不満に思っていました。
貧しい家庭でしたが母は教育熱心でした。そうして僕は受験し、たまたま抽選にも受かり、国立の東京教育大学(現在の筑波大学)の附属小学校に行くこととなります。