
石橋を走って渡る父、叩いても渡らぬ母
6/13(金)
2025年
SHARE
設楽 洋 2025/06/03
僕が生まれた1950年代は、世の中はまだまだ戦後ですから、日本は貧乏でした。僕は新宿の真ん中に住んでいましたが、後ろの家ではヤギを飼っていたり、空き地に積んである土管にゴザを敷いてそこに住んでいる人がいたり。新宿の大ガードの下にも傷痍(しょうい)軍人が缶を置いてお金をもらっていました。そこを通るのにドキドキしたのをよく覚えています。
親からは「隣の工場には行っちゃいけないよ、危ないから」と言われていましたが、貧乏でしたし、買ってもらうおもちゃも少なかったので、幼稚園の頃は、よく工場に忍び込んで、ダンボールの破片などを拾ってきて、それと家にある割り箸と輪ゴムと糸巻きで、いろいろなものを作ったりしていました。
おそらくそれがのちの創意工夫につながったのかなと思います。僕は物を作ったり、物を工夫したり、想像して何かを形にするのが大好きで、父もそうでしたけれども、物がなかった時代に自分で、捨てられているものから何かを作ることが、のちの自分にとても役立ったのかなという想いがあります。
4歳くらいから、遊ぶときはいつも家の前の青果市場でした。市場は朝、競りが終わると誰もいなくなるので、そこに忍び込んで、積んであるジャガイモの俵などにのぼったり、かくれんぼをしたりしました。あとは、いわゆるトロッコです。猫車と呼んでいましたが、それに乗って坂をキューっと下って遊んでいました。当時は物はなかったけれど、工夫次第で遊べる要素はすごく多かったと思います。
そうして、だんだんと父の商売も軌道に乗ってきました。僕は弟と4歳半、妹とは10歳離れているのですが、弟・妹が大きくなってきた時には、ある程度普通の生活ができる家庭にはなっていました。
あの時代はみなそうでしたが、家は汲み取り式のいわゆるボットン便所でしたし、家の中には水道がなく、庭に水道があってそこで洗濯をしていました。 お風呂もお風呂屋さん、洗濯機も当然あるはずもなく、冷蔵庫はあったものの、木でできた、氷を入れるタイプのものでした。だから、はじめて家に洗濯機やテレビが来た日、初めて扇風機が来た日をよく覚えています。扇風機が来た日には「絶対、指を入れちゃいけないよ」と言われたり、テレビは仏壇のような木の箱に入っていて、観るときには、観音開きの扉をうやうやしく開けたものでした。
それ以前は、父がお金を借りたダイワ電機さんという、近所で唯一のお金持ちの家のところにテレビがあり、近所の人たちは全員そこに観に行っていました。皆で力道山を応援するような時代でした。
そんな時代から、25年経ち、50年経ち、現在74歳になりますが、ものすごい激動の時代、変化の時代を生きたなということは強く実感しています。
写真引用元:
ブログ「落合学(落合道人)――中央線の脇に立つ焦土新宿のピラミッド。」
https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-06-18.html