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2025

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    大学時代――夏の葉山での“アメリカ”との衝撃的な出会い

    #07大学時代――夏の葉山での“アメリカ”との衝撃的な出会い

    原石からダイヤへ

     予備校を経て、何とか大学には入学を果たしたものの、当時は学生運動の余韻がまだ色濃く残っている時代でした。キャンパスへ行っても、封鎖されていて使えないといったこともしばしばありました。僕は政治にはまったくの無関心だったのですが、同級生の中には、かなり学生運動に傾倒し、過激な活動を計画・実行するような人たちもいたことを覚えています。一方僕はというと、軟派の象徴であったので、講義が休講になると、雨であれば雀荘へ、晴れていれば湘南の海へと向かう生活を送っていました。なにせ、行きたくとも講義には行けませんでしたから。

     ただ、広告学研究会には入会しました。なぜかというと、毎年夏の7~8月にかけ、葉山海岸で「キャンプストア」という海の家を運営するという活動があり、それを目当てにしていたためです。僕は海が大好きなので、とても楽しく活動をさせてもらっていました。

     ところがそこで、衝撃的な出会いを果たすこととなります。夏休みの間、葉山の海岸で海の家を運営していたとき、偶然にも横須賀ベースキャンプ(海軍施設の駐屯地)のアメリカ人たちが、お客様としてやってこられたのです。ずっとアメリカに憧れていた僕は、そこで彼らと仲良くなりました。ある時、バザーを行うということで、横須賀ベースキャンプの中に入れてもらう機会に恵まれました。

     基地の中に足を踏み入れるとそこには、夢にまで見たアメリカ、まだ行ったことのないアメリカの世界が広がっていたのです。当時は、まだ1ドル360円の固定相場制のときでしたので、アメリカに行くことなど、とても一般人には叶いませんでした。たとえ行けたとしてもハワイ止まりで、それすらもテレビ番組などで、「さあ、夢のハワイに行きましょう!」「懸賞商品は夢のハワイです!」と言われるような時代だったのです。

     そこには、テレビや映画で観てきた憧れのアメリカの世界が広がっていました。芝生の上に将校の白い住宅が建っており、家の中に入るとGEの冷蔵庫と大きなピザ、映画『名犬ラッシー』のような大型犬が元気に走り回っていました。庭にはバスケットボールリングがあり、子どもたちがバスケをやっていて、「えっ、白いジーパンなんてあるんだ!」「あのバッシュ(バスケットシューズ)はなんだろう?」など、一つひとつが驚きの連続でした。僕らは月星シューズを履いているのに、彼らが履いているバッシュはとてもかっこよく、感激したことを覚えています。

     しかし、当時はそういったものがどれだけ欲しいと思っても、日本に売っているところがなかったのです。横須賀ベースのキャンプのバザーでは販売されるのですが、買いたくてもサイズが合わなかったりしました。このとき、「日本に存在しないならば、自分でアメリカから探してきたら良い」と考えたのが、セレクトショップという新しいビジネスの発想に繋がったアイデアの一つです。

     大学に入学してから、アメリカではベトナム戦争が終結し、日本では学生運動が終焉を迎え、夜の世界から昼の世界へと、文化の中心が大きく転換したのです。大学のキャンパスに行ったときになんとなく、「なんだか青い空が広がっている」と感じました。それまで新宿の「ディグ」や「ダグ」といった夜のジャズ喫茶でタバコをくゆらせていた人間が、世の中の風向きが変わったことを感じた瞬間でした。

     たとえば、六本木の夜の町で遊んでいた大学の先輩たちが、突然サーフィンを始めたり、スケボーを始めたりしたわけです。そうして、僕の頭上にも、スコーンと抜けた青い空が広がったような感覚。町や店でかかっている音楽も、それまではソウルやジャズミュージックだったのが、急に軽快なカリフォルニアサウンドへと変わったのです。ビームスがオープンした1976年の大ヒット曲も、イーグルスの「ホテルカリフォルニア」でした。このような、文化や流行が一変する瞬間を味わったことも、僕に新しいことを興そうと発起させるきっかけの一つとなったのです。

     それと同時に、それまで夜の世界で遊んでいた人たちが、世の中に新たな横文字の名を持つ職業として、世に出てきました。デザイナーやコピーライター、スタイリストといった職業の人たちです。そういった人たちは、学生時代はいわゆる「不良」として遊んでいた人が多くいました。学業では成績が芳しくなかったため、一流企業と言われる会社や上場企業に縁はなかったけれど、遊びをよく知っているので、センスが良く、とても気の利く人たち。そういった人たちが、先のようなクリエイター業として、世に台頭してきたのです。

     彼らこそが、さまざまな文化を作り流行を発信してきたわけです。当時六本木・板倉片町にあった『キャンティ』もその一つでした。当時僕はまだ高校生でしたが、「なんでもう少し早く生まれなかったんだろう」と思ったくらい、憧れの場所でした。そこには、のちに多くの芸能人やクリエイターを輩出した伝説の若者グループ『野獣会』もいました。同じく横浜には『横マン』というグループ、下町には下町のグループが存在していたのです。そうしたグループから、のちに芸能界で活躍する堺正章さんや井上順さん、加賀まり子さんや大原麗子さんといった、おしゃれで綺麗な方たちが誕生していき、流行の象徴といえるような存在でした。

     僕は彼らの仲間になりたいな、と強く思っていたのです。高校生で若いのでどのグループにも入れてもらえると思っていたのですが、結果は、どこにも仲間に入れてもらえませんでした。「高校生だからもう早く帰りなさい」と。僕はそんな人たちへの憧れを抱きながら、僕自身もそうした文化や流行の中心に入っていきたいという想いを、さらに強くしていったのでした。

     アメリカ文化の影響からはじまり、音楽活動やおしゃれの追求、そしてのちに芸能界やファッション、クリエイティブな世界で活躍するおしゃれな人たちへの憧れ。さまざまな出会いや経験が僕の感性を揺さぶり、のちの生き方を形づくっていったのではないか、と感じています。

    #ビームス#BEAMS#設楽洋#タラちゃん#経営#ファッション業界
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