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2025

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    信念を教えてくれた恩師と遊び呆けた浪人時代

    #12信念を教えてくれた恩師と遊び呆けた浪人時代

    原石からダイヤへ

    高校3年生の時の担任は、H先生という数学の先生でした。当時の熊本高校の生徒なら誰もが知る名物先生で、チョークで生徒の頭を叩きながら「なんてかー?なんば言いよっとか?違うだろうが!定義が大事て言うとっだろうが!」と檄(げき)を飛ばす、今では考えられないような鬼教師でした。その先生が担任になった時、私は「やばいな」と思ったものです。

    しかし、不思議なことに、H先生は私を一度も叩きませんでした。私は成績が悪いことをむしろ楽しんでいるような生徒で、ある時など、クラスメイトが私の物理の0点の答案に「高濱君の0点の答案」と書いて教室に貼り出し、笑いものにしていたことがありました。そこへ入ってきたH先生は、その答案を一瞥(いちべつ)すると、「0点のテストに、高濱…『君』はいらん!」とだけ言って、笑って去っていきました。先生は、私のことをどこかで認めてくれていたようです。最後の三者面談でも、「お前は最後はやる男だけん、大丈夫と思っとる。なあんも言わんけん」と、多くを語らずに見守っていてくれました。

    先生の「定義が大事。いつでも定義は言えるように」という言葉は、浪人中に数学を基礎からやり直して成績を上げた際の、大きな支えとなりました。

    三浪の末、ようやく大学に合格した私が挨拶に伺うと、先生は私に語り始めました。実は、のちに世界的有名な政治犯になった人物の先生でもあった、というのです。

    「卒業したから言うが、俺はあいつの担任でもあったんだ。人には言えんが、お前には言う。それが本当に本人の信念だったら、俺はそれを認める。やりたいように生きろ。お前は、そこで終わるような奴じゃないだろうから。」

    この言葉は三浪四留の時の支えでした。ありのままの自分を認めてくれた感じがしました。何が正義か分からない時代だからこそ、「信念に従って生きろ」と言ってくれたのだと思います。今の時代ではなかなか出会えない、スケールの大きな先生でした。こんな先生に出会えたことは、私の人生の大きな財産です。

    そんな恩師に見守られていたにもかかわらず、ほぼビリケツで卒業し、私の浪人生活は堕落を極めていました。一浪目は、大学生になった彼女に会いたい一心で、勉強はそっちのけ。朝からパチンコ屋に並び、麻雀で生活費を稼ぐような日々。親には「勉強大変とたい!」などと嘘をつき、遊び呆けていました。彼女は、私が離れていかないようにと、3畳一間の下宿に頻繁に手紙をくれましたが、その手紙を読むたびに会いたくなり、勉強はさらに手につかなくなりました。

    当然のように二浪目が決まり、今度は予備校で、後に武蔵野美術大学の教授となるYくんと出会いました。彼は一浪、私は二浪で、同じ下宿で意気投合し、結局二人でジャズ喫茶に入り浸りインベーダーゲームに夢中になるなど、また遊び呆けることになります。本当にとんでもない日々でした。もちろん、勉強は何一つ身につきませんでした。しかし、そんな成果のない時間でさえも、今となってはかけがえのない青春の思い出なのです。

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