
転機の児童会役員選挙――いじめ克服の瞬間
8/6(水)
2025年
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高濱 正伸 2025/08/04
自信がつくことで、人生の羅針盤がくるりと向きを変えることがあります。前回お話しした、中務先生がかけてくれた言葉は、私にとって、それまで北を向いていた針が、いきなり南を指し始めたような、そんな劇的な瞬間でした。場面緘黙を克服してからの小学校3、4年生の日々は、まさに天国のように楽しい時間でした。気の合う4人組の仲間ができ、いつも一緒に遊んでいました。
人吉城の城址には、有名な「武者返し」の石垣があります。私たちはそこを駆け回って虫を捕ったり、頂上で肩を組んで歌ったり、最高の少年時代を過ごしました。
4年生の時、仲良し4人組で、クラスの可愛い女の子たち4人を誘って8人で山へ冒険に行こうという話になりました。「ここから先は入ってはいけない」と言われていた、城の向こうにある場所へ行こうぜ、と。それは、さながら映画『スタンド・バイ・ミー』のような冒険の始まりでした。女の子たちも「行く行く」と乗り気で、その中には、私の初恋の人、A子さんもいました。
当時、女子の間で「リリアン」という編み物が流行っていました。私も釘を板に打ち付けて自作し、せっせと長い紐を編み上げました。なぜかというと、登山中に女の子が「助けて!」となった時、この紐を投げて救う――そんなヒーローのような自分を想像していたからです。
そして実際に、その場面はやって来ました。A子さんが急な坂を登れずにいるのを見て、私は「これにつかまれ!」と、編み上げた紐を投げました。しかし、手作りの紐はビヨーンと伸びてしまい、全く役に立ちません。それでも、少しだけ格好いいことができたような気分になり、それからは私が何か言うと、A子さんがケラケラと笑ってくれるようになりました。「想いが通じたかもしれない」。そんな淡い恋の始まりの感覚を、今でも覚えています。あの時、私の心は確かに一度、世界に向かって開かれたのです。
本当にのどかな、山と川と緑に囲まれた思い出です。しかし、5年生になると状況は一変します。急に大人びて、男女がお互いを意識し始めると、子どもたちの残酷さ、つまり「いじめ」の質も変わるのです。クラス替えで、私は学年の腕白たちが集まるクラスになりました。先生たちは当初、「高濱くんに彼らの面倒を見てもらおう」と期待していたようですが、逆に私は、彼らのいじめの標的となってしまいました。
私は、中学2年まで背が一番前というほど小柄でしたが、頭だけは大きかったのです。しかも後ろに少し長い形で、帽子がなかなか入りませんでした。「頭のことだけは言わないでくれ」と願っていた、そのコンプレックスをクラスメイトたちは見逃しませんでした。
ある日、学校へ行くと、クラスメイトの一人が私を指さして叫びました。
「へー、高濱がきたぞ、せーりゃーの! でこっぱち、でこっぱち!」
その言葉に、クラス中がどっと沸きました。
私は教室の入り口で、ただもじもじするしかありませんでした。何も言い返せない。今、教育者として振り返ると、この反応こそが「いじめられスイッチ」だと分かります。毅然と言い返せていれば違ったのかもしれません。しかし、何もできない私を見て、彼らのからかいはエスカレートしていきました。身体的な特徴をからかわれるのは、何よりもつらいものでした。
何日か、誰とも話さず、逃げるように家に帰る日々が続きました。当時は、学校を休むという選択肢も思い浮かびませんでした。学校には必ず行くものだと思い込んでいたのです。苦しくて、辛くて、体の小さな子どもでしたが、私は初めて「死」ということを考えました。橋の欄干から川面に映る自分を見て、「こんな頭だったら死んだ方がいいな」と。大人から見れば愚かなことですが、いじめられている最中の子どもの心は、そうやって追い詰められていくのです。
そんな私の異変に、母はすぐに気づきました。いじめが始まって1日目か2日目のことだったと思います。じっと私の顔を見て、「あんた、顔に書いてあるからわかるもんね。今日学校で泣いたろう」と。そして、「正伸、おいで」と私を呼び、トイレに通じる廊下で二人きりになりました。
「あんた、学校で何かあったろ?」
長いこと返事をしないでいると、母はこう言って、私をぎゅっと抱きしめてくれました。
「言わんでよか、言わんでよかばってんね、あんたが学校のこと口出さんばってん、お母さんは、あんたが元気ならよかだよ」
それは、私の人生における、まさに一大転機でした。浜辺に書いた文字が、ひと波でさっと消えていくように、心の苦しみがすーっと楽になったのです。
「ああ、大丈夫かもしれない」。
心からそう思えた瞬間でした。