
「大義を思うものは、たとえ首をはねられ瞬間までも...
10/20(月)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/20
「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」
この言葉に、どんな人生観を感じるでしょうか。
もしも今日という日が最後だとしたら、私たちはどんな行動を選ぶのか。そして、どんな状況でも学び続けることに意味はあるのか。
今なお人々の心に深く響くこのフレーズを残したのが、「マハトマ(偉大な魂)」の称号で敬愛されるガンディーです。
彼はなぜここまで多くの人々に影響を与え、今なお語り継がれているのでしょうか。本記事では、ガンディーの足跡をたどりながら、現代の私たちにも通じる“生き方の本質”を探ります。
1869年10月2日、現在のインド・グジャラート州のポルバンダルで、モーハンダース・カラムチャンド・ガンディーは生を受けました。裕福な家庭の末っ子として育ったガンディーは、成績も素行も決して優等生とは言えず、ヒンドゥー教の戒律を破って肉を食べ、タバコに手を出し、時に召使いの金を盗むことさえありました。
そんな彼に転機が訪れたのは、18歳でイギリス留学を決意したときです。母の強い反対を受けた彼は「肉を食べない」「酒を飲まない」「女性に触れない」という三つの誓いを立てて説得し、ロンドンへと渡りました。
この「自らを律する誓い」は、後の彼の生き方の根幹となっていきます。
イギリスで法学を学び、1891年に弁護士資格を取得したガンディー。しかし、インドに戻っても弁護士としての仕事は思うようにいかず、転機は思わぬ形でやってきます。
1893年、仕事の縁で南アフリカに渡ったガンディー。そこで待ち受けていたのは、白人によるインド人差別の現実でした。一等車の切符を持っていたにも関わらず、インド人というだけで無理やり車両から放り出される。この体験が、彼の心に火をつけました。
「自分だけでなく、すべての人が自由で平等であるべきだ」
こう確信したガンディーは、南アフリカに住むインド人たちのために、非暴力と不服従の精神で立ち上がります。
当時、インド人に対してだけ指紋登録を義務付ける法律が施行されると、彼は「サティヤーグラハ(真理を堅持する)」という新しい運動を提唱しました。
「私たちは、これらの法律が撤回されるまで従うことを拒否する。この闘争において、生命・個人・財産に暴力をふるうことは決してしません」
この宣言のもと、彼と仲間たちは指紋登録証を焼き払い、逮捕や投獄にも決して暴力で対抗しませんでした。この運動はやがて南アフリカの政策を変え、1914年、インド人への差別的な法律は撤廃されました。
1915年、南アフリカでの経験を胸に、ガンディーは祖国インドへ戻ります。イギリスの植民地支配下、重い税や不当な法律に苦しむ民衆の姿を目の当たりにし、「非暴力・不服従」の理念をさらに広めていきました。
特に象徴的なのが「チャルカ(糸車)」運動です。
イギリスはインド産の綿花を安く買い取り、自国で布に加工して高くインドに売りつけていました。その結果、多くのインド人が職を失い、伝統産業は崩壊します。
「イギリス製品を使わず、自分たちで糸を紡ぎ、布を織ろう」
ガンディーは自ら糸車を回し、手織りの服を身につけながら、「国産品の愛用」を訴えました。糸車はやがて、インド独立運動のシンボルとなっていきます。
第一次世界大戦後、イギリスは「インドに協力すれば自治を認める」と約束しておきながら、その約束を反故にしました。さらに「ローラット法」により、令状なしでの逮捕や裁判抜きの投獄が合法化され、インド人の人権は踏みにじられます。
これに対してガンディーは「サティヤーグラハの日」を定め、全国規模のハルタール(商店や学校の休業、断食、祈り)を呼びかけました。
このときガンディーは「真理に忠実に生き、暴力を否定することが最大の力だ」と繰り返し訴えました。
民衆を巻き込む運動に発展したなか、ガンディーが再び世界を驚かせたのが1930年の「塩の行進」です。イギリスは塩の製造と販売を独占し、インド人には高い塩税を課していました。ガンディーは数十人の弟子たちと共に、約380キロを歩いて海岸まで行き、海水から塩を作りながら抗議しました。
「塩は誰のものでもない。自然の恵みだ。
最も貧しい人々が、自由に手にできるべきだ」
この行進には数千人が合流し、イギリスの弾圧にも決して暴力でやり返すことなく、民衆の「静かな力」を世界に示しました。
ガンディーの改革は政治だけでなく、インド社会の根深い差別にも及びました。カースト制度の最下層に位置づけられていた「不可触民(ダリット)」に対して、彼は「ハリジャン(神の子)」と呼び、差別撤廃と教育・生活支援に尽力しました。
「私は不可触民の家で食事をし、彼らの娘を我が子のように育てる」
ガンディーは言葉だけでなく、生活そのもので平等を実践しました。一方で、不可触民への特別枠を巡る政治的対立では、断食を通じて自らの命をかけて抗議し、最終的に妥協案を引き出しました。
インド独立が現実味を帯びると、今度は国内でヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が激化しました。
イギリスからの独立が決まると同時に、イスラム教徒の国・パキスタンとヒンドゥー教徒が多数を占めるインドに「分離独立」することに。このとき、各地で大規模な暴動が発生します。
ガンディーは「どちらの宗教も同じように尊い」とくり返し訴え、暴力をやめるよう断食を実行。
「私が生きている限り、争いを止めるために命をかける」
その姿勢に多くの人が心を動かされましたが、強硬派には「イスラム教徒に甘すぎる」と非難されることも増えていきます。
1947年8月15日、ついにインドは独立を迎えます。しかしそれは、ガンディーが一貫して望んだ「統一インド」ではありませんでした。
分離独立の結果、ヒンドゥーとイスラムの対立はさらに深刻化します。
独立の前夜、ガンディーはこう語っています。
「明日からイギリスの支配から解放されます。しかし、インドは分割されるのです。
だからこそ、明日は喜びの日であると同時に、悲しみの日でもあります。
私たちに大きな責任が課せられました。神がそれを支える力を与えてくださるよう祈りましょう」
式典の場に、ガンディーの姿はありませんでした。
独立後もガンディーは宗教融和のために奔走し続けました。しかし1948年1月30日、ニューデリーで祈りの場に向かう途中、ヒンドゥー至上主義者のナトゥラム・ゴードセによって銃撃され、亡くなりました。享年78歳。
その最期、両手を合わせて「おお、神よ(ヘイ・ラーム)」とつぶやいたと伝えられています。
最後まで「敵をも許す」精神を貫いたガンディーの死に、インド中が悲しみに包まれました。
彼の葬儀には200万人を超える人々が参列し、遺灰はガンジス川や南アフリカの海へとまかれました。
ガンディーの歩みは、決して単なる「聖人伝」ではありません。彼の非暴力・不服従の思想は、アメリカのキング牧師や南アフリカのネルソン・マンデラといった世界のリーダーたちにも受け継がれ、社会変革の武器となりました。
「力によらず、愛と真理で世界を変える」
この哲学は、時代や国境を超えて今も感動を与え続けています。
「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」
ガンディーのこの言葉は、私たち一人ひとりに問いかけています。
自分の人生に誠実であること、真理を追い続けること、そして他者と平和に共存すること
それらは決して時代遅れの理想ではなく、今をより良く生きるための普遍的な指針なのです。
もし今日が最後の日だとしたら、あなたはどんな行動を選ぶでしょうか。そして、どんな困難に直面しても学び続ける姿勢を、持ち続けていられるでしょうか。
ガンディーの生き方を胸に、私たちもまた、自分自身と社会を変える小さな一歩を踏み出してみませんか。それこそが、彼の遺した最大の“教え”なのかもしれません。