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10/20(月)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/20
あなたは「石田三成」と聞いて、どんな人物像を思い浮かべますか?
冷徹な官僚、忠義の士、それとも“敗れた武将”?
現代では再評価の流れも進み、「義」のために生き抜いた人物として語られることが増えてきました。
「大義を思うものは、たとえ首をはねられ瞬間までも命を大切にして、なにとぞ本意を達せんと思う」と語った石田三成の生涯をひも解いていきます。
彼の信念や行動が、現代を生きる私たちにどんな示唆を与えてくれるのか、一緒に探っていきましょう。
石田三成は永禄3年(1560年)、近江国、現在の滋賀県長浜市に生まれました。父・石田正継は学問に通じ、和歌や教養を重んじる人物でした。その影響もあってか、幼い三成も学問や礼節を学び、聡明な少年として知られていました。
彼の名を一気に歴史の表舞台へと押し上げた“伝説”があります。それが「三献の茶」の逸話です。
ある日、当時まだ新興勢力だった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が鷹狩りの帰りに立ち寄った寺で、のどの渇きを訴えます。そこで寺にいた三成は、最初に大ぶりの茶碗でぬるいお茶を出し、次にやや熱めの半分ほどのお茶、最後に小さな茶碗で熱いお茶を出しました。
このおもてなしは、渇きに応じて飲みやすく、徐々にお茶本来の香りや味わいを楽しめるよう工夫されたものでした。
この心遣いに感銘を受けた秀吉は、後に三成を家臣に迎え入れることとなります。
この逸話の真偽には諸説ありますが、三成の「相手の立場や状況を察し、最善を尽くす」という資質を象徴する話であることは間違いありません。
三成は秀吉の近習として仕え始めましたが、いわゆる“前線で刀を振るう武将”というよりは、情報収集や戦略立案、兵站(物資や食糧の手配)など、実務面で才能を発揮していきます。
秀吉が天下を争った賤ヶ岳の戦い(1583年)では、敵方の動向や地形、気候など多方面の情報を的確に集め、分析し、秀吉に伝えました。その情報力が、秀吉軍の勝利を呼び込んだと言われています。
また、戦後には軍団の迅速な撤退や補給計画を見事に遂行し、組織の屋台骨を支えました。
「情報を制するものが勝負を制す」──現代のビジネスでも通じるこの原則を、三成はすでに体現していたのです。
秀吉が天下人となった後、三成は豊臣政権の中枢で活躍します。
特に重要なのが「太閤検地」と呼ばれる全国規模の土地・収穫量の測量事業です。三成は“検地奉行”に任命され、全国を巡回。土地の大きさを測る「検地尺」という基準を全国一律に定めることに成功しました。
三成は「公正・正確な計測こそが社会の安定につながる」と信じ、現地での丁寧な説明や、農民への不当な圧力を禁じる“七カ条”を現場で徹底させました。
この改革によって、年貢(税金)の徴収が格段に安定し、豊臣政権の財政基盤が強化されたのです。
「全国統一の基準」をつくる──三成の視野は、きわめて先進的でした。
三成のもとには、島左近や大谷吉継といった名将・親友が集いました。島左近を家臣に迎える際、三成は自らの所領の半分近くを破格の禄高として与えました。
「主君と家臣の禄高が同じとは聞いたことがない」と秀吉も驚きますが、三成は「左近ほどの名士を自分の部下にするには、これだけの誠意が必要です」と語りました。
このエピソードは、単なる権力者ではなく、本当に“優れた人材とチームをつくること”に心を砕くリーダーだったことを示しています。
また、大谷吉継との友情も有名です。あるお茶会で大谷吉継が病気のため茶碗に膿が落ちてしまい、誰も手を出せなくなった時、三成は「吉継、私は喉が渇いて待ちきれない。早く碗を回せ」と言い、お茶を一気に飲み干しました。
「相手を思いやる心」──三成の人間味が感じられる瞬間です。
豊臣秀吉が亡くなった後、日本の政局は大きく揺れ動きます。徳川家康が天下取りに乗り出す中、三成は「豊臣家のために義を尽くす」ことを誓い、五奉行の筆頭として政権運営にあたります。
しかし、武断派の加藤清正や福島正則らと対立し、ついには襲撃される事態に。家康が仲裁に入り、三成は一時佐和山城に隠居することとなりました。
それでも三成は、家康の天下取りの野望を見過ごすことはできませんでした。
「秀吉公の遺命を守り、豊臣家を守る」
そのために再び立ち上がり、家康と対決する運命を選びます。
この決断は、「自身の出世や保身」ではなく、「大義」を第一に考えたものでした。現代で言えば、自らリスクを背負ってでも“組織の理念”を守ろうとするリーダー像に重なります。
1600年、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が勃発します。三成は西軍の中心人物として指揮を執りますが、小早川秀秋らの裏切りによって形勢が一気に逆転し、ついに敗北を喫します。
三成は自害することなく逃亡し、再起の機会をうかがいました。この行動は「生きている限り、本意を果たす道は残されている」との強い意志の表れです。しかし最終的には捕縛され、京都・六条河原で斬首となります。
処刑の直前、三成は喉の渇きを訴えますが、水は与えられず干し柿を差し出されました。「柿は痰の毒だからいらない」と三成は断ります。
「これから死ぬ者が今さら毒を気にしてどうする」と笑われても、
「大義を思うものは、たとえ首をはねられ瞬間までも命を大切にして、なにとぞ本意を達せんと思う」
と毅然と言い放ちました。
この言葉には、「最期の瞬間まで命を大切にすることこそが、大義を成し遂げるために必要だ」という三成の信念が凝縮されています。死の間際まで“本意”を貫き通す──それが三成の生き方でした。
石田三成の人物像は、後世の徳川幕府によって「奸臣」「嫌われ者」として描かれることが多くなりました。しかし、実際には誠実で、融通の利かないほど一本気で、仲間や部下、主君に対しては誰よりも誠実な人間だったのです。
彼が掲げた「大一大万大吉」という旗印は、「一人は万人のために、万人は一人のために尽くせば、天下は幸せになる」という意味です。現代の「One for all, all for one」とも通じる、組織や社会に必要な“信頼”や“連帯”を象徴しています。
現代社会でも、組織やチームを率いる中で「嫌われ役」や「汚れ役」をあえて引き受ける人が必要です。目先の損得ではなく、“本当に大切なこと”のために信念を貫くリーダーが求められています。
三成の生き様は、「大義のために最期まで自分を律する」ことの重要性を、私たちに教えてくれます。
石田三成がもし現代に生きていたら、どんな組織で、どんなリーダーシップを発揮したでしょうか。“理想”と“現実”の狭間で悩みながらも、「大義」を見失わなかった三成の姿は、現代の私たちにとっても大きなヒントを与えてくれるはずです。
「大義を思うものは、たとえ首をはねられ瞬間までも命を大切にして、なにとぞ本意を達せんと思う」
三成の生き方をヒントに、もう一度自分自身の「大義」と向き合ってみてはいかがでしょうか。