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10/20(月)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/20
「日本で一番有名な絵師は?」と聞かれて、葛飾北斎の名を挙げる人は多いでしょう。しかし、その人生や人柄、そして晩年にまで燃え続けた成長への情熱を知る人は案外少ないかもしれません。
実は、北斎は90歳で亡くなるまで絵筆を手放さず、成長し続けた「生涯現役」の芸術家でした。彼の人生をたどることで、なぜ今も世界中から高く評価されるのか、その核心に迫ります。
葛飾北斎は1760年、江戸本所割下水(現在の東京都墨田区)に生まれました。幼い頃から絵を描くことに熱中し、なんと6歳の時には既に「物の形を写す癖があった」と後年自ら語っています。
この頃から、彼の内面には“描くこと”そのものへの飽くなき探求心が芽生えていたのでしょう。
19歳で人気浮世絵師・勝川春章の門を叩き、「春朗(しゅんろう)」という画号で絵師人生をスタートさせました。
この時期、歌舞伎役者の似顔絵や挿絵を描きながら、技術を磨きます。しかし、30歳を過ぎると勝川派を離れ、狩野派や琳派といった他流派の技法も積極的に学び始めました。
「一つの流派にとどまらず、常に新しい表現を求める」――その姿勢は、この頃から既に現れていたのです。
北斎は生涯で30回以上も画号を変えました。「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」など、まるで脱皮を繰り返す蛇のように、名前を変えては新たな境地に挑戦し続けました。
その背景には、「画風や心境の変化を名前に映し出したい」という強い意志がありました。実際、北斎は「一つの成功に満足せず、次々と脱皮し続ける変化の人」であったと同時代の人にも評されています。
北斎の奇人ぶりは、生活の随所にも表れます。「部屋が散らかってきたら掃除するより引っ越してしまう」という徹底ぶりで、人生で90回以上も住まいを変えたと伝わります。
物欲や金銭への執着も薄く、食事や衣服にも無頓着。それでも、絵を描くことだけには一切の妥協を許さなかったのです。
北斎は美人画・役者絵・読本挿絵・花鳥画・妖怪画、そして何より風景画と、ジャンルにとらわれず作品を生み出しました。
特に『北斎漫画』では、日常の動きやユーモア、人物のしぐさを軽やかに描き、後のマンガやアニメ文化にも大きな影響を与えています。
北斎が世界的な名声を得るきっかけとなったのが、70代で手がけた『富嶽三十六景』です。このシリーズは、江戸各地から見た富士山を描いた全46図で構成され、同じ富士山をさまざまな視点や季節、天候で表現しました。
中でも「神奈川沖浪裏」は、巨大な波と小舟、遠景の富士山という大胆な構図で、自然と人間の対比を浮かび上がらせ、今や「The Great Wave」として世界中に知られています。
「色彩の鮮やかさ」「西洋の遠近法の導入」など、当時としては画期的な技法が惜しみなく注がれていました。
ヨーロッパでは印象派の巨匠ゴッホやモネにも影響を与え、ジャポニスムの流行を牽引したのです。
北斎は『富嶽百景』の跋文で、こう記しています。
「私は六歳より物の形を写生する癖があり
五十歳のころから数々の図画を本格的に描いてきた
だが七十歳までに描いたものは、実に取るに足りないものばかりであった
七十三歳になってようやく鳥獣虫魚の骨格や草木の本性を悟ることができた」
さらに、
「ゆえに八十歳になればますます進歩し
九十歳になればさらにその本質を極めて
百歳でまさに神妙の域に達するのではないだろうか
百何十歳となれば描く一点一格は生命をもつようになるだろう
願わくば長寿の神よ
私の言葉が偽りでないことを見ていてほしい」
と綴りました。
この言葉からも、「いくつになっても成長し続けたい」「もっと上手くなりたい」という北斎のひたむきさが伝わってきます。江戸時代の平均寿命が50歳前後だったことを考えると、70代を過ぎても新境地を開拓し続けた北斎は、生涯挑戦を続けたのです。
晩年の北斎は、娘であり同じく絵師でもあった葛飾応為と共に暮らしていました。応為は父の生活を支えながら、自らも美人画などで高い評価を受けました。「北斎よりも上手い」とまで言われたこともあるほどです。
北斎が老いても創作を続けられたのは、応為の支えがあってこそ。二人の間には、単なる親子を超えた芸術的な共鳴関係が育まれていたのです。
晩年、北斎は「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」と名乗り始めました。
「画狂」とは「絵に狂った老人」、そして「卍」は仏教的な吉祥や永遠を象徴する記号です。
自身の人生そのものを「絵に狂った道」と定義し、どこまでも芸術の高みを目指し続けた北斎の覚悟が、この号には込められています。
この時期には『百物語』などの怪異画や幻想的な作品も多く手がけ、内容もより独創的かつ自由なものへと進化していきました。
90歳という長寿を全うした北斎ですが、最期の言葉には、やはり成長への渇望が込められていました。
「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし(あと5年生きれば本物の絵師になれるのに)」
死の直前まで、「もっと上手くなりたい」「もっと新しい表現を追求したい」と願い続けた北斎。その情熱は、まさに人生の終わりまで燃え続けていたのです。
葛飾北斎の人生を振り返ると、年齢や環境、時代の制約をものともせず、常に新しい自分を追い求め続けた姿が見えてきます。
「今がゴールではない」「もっと良くなれる」という信念を、彼は死の間際まで持ち続けました。
私たちの人生や仕事においても、「成長は終わらない」という北斎の生き方は、大きなヒントになるはずです。
限界を決めず、情熱を燃やし続ける――それが、時代を超えて人々を惹きつける本当の強さなのかもしれません。