
「大義を思うものは、たとえ首をはねられ瞬間までも...
10/20(月)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/20
暗闇の中、酸素が薄れ、死が避けられないとわかったその瞬間、あなたは何を考え、誰を思うでしょうか。
今から110年以上も前、そんな極限状態で「仲間」と「未来」を思い続けた男がいました。彼の名は佐久間勉――日本の潜水艦史にその名を刻む第六潜水艇の艇長です。
1879年、滋賀県三方郡前川村(現在の福井県若狭町)で、神社神官であり教育者でもあった父のもとに生まれた佐久間勉。幼い頃から学問に親しみ、やがて福井県立小浜中学校、攻玉社と進み、海軍兵学校第29期へと進学します。
卒業後は巡洋艦「吾妻」や「笠置」に乗り組み、日露戦争にも従軍。冷静かつ責任感の強さで頭角を現していきました。戦後は水雷術の修得を経て、駆逐艦や潜水艇の指揮官、参謀など多彩な経験を積み重ねていきます。
1906年、日本初の「純国産」潜水艦である第六潜水艇が川崎造船所で完成。佐久間は副長としてこれに携わり、1908年には艇長に昇進。わずか30歳で国産潜水艦の最前線に立つこととなったのです。
明治43年4月15日、広島湾沖で第六潜水艇はガソリン潜航の実験訓練に臨みます。佐久間大尉以下14名の乗組員が艇に乗り込み、訓練は始まりました。
ところが、煙突の高さ以上に潜水してしまったことで浸水が発生。閉鎖装置のトラブルも重なり、潜水艇は海底17メートルに沈んでしまいます。
パニックに陥り、出口に殺到する――そんな光景を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。実際、欧米では同様の事故の際、乗組員同士が脱出を巡って争い、悲劇的な最期を遂げた事例も少なくありません。
救助が遅れ、翌日引き揚げられた第六潜水艇のハッチを開けた救助隊が目にしたのは、想像を絶する光景でした。
14名の乗組員たちは、誰一人脱出口に殺到せず、それぞれ担当の持ち場でそのまま息絶えていたのです。修理班は最後までガソリンパイプの破損箇所で作業にあたり、他の乗員も冷静に自らの職責を全うしていました。
佐久間大尉もまた、極限状態の中で自らのノートに事故の経緯と分析を克明に書き残し続けていました。酸素が薄れ、ガスで意識が朦朧とする中、彼の字はだんだん乱れながらも、そのペンは止まることなく、最後まで仲間の様子と自責の念、そして未来への願いを綴り続けたのです。
佐久間大尉が最後に残した遺書は、39ページにもおよぶものでした。その中で彼はまず、明治天皇に対し「小官の不注意により陛下の艇を沈め部下を殺す、誠に申し訳なし」と謝罪します。続けて、「されど艇員一同、死に至るまで皆よくその職を守り、沈着に事を処せり」と、仲間たちが最期まで職責を全うしたことを誇りに思い、記しています。
さらに彼は、この事故が日本の潜水艇発展の妨げにならないことを強く願い、冷静に事故原因の分析も記録しました。
そして、彼の遺言の中でもっとも心を打つのは、部下とその遺族への気遣いです。
「謹んで陛下に申す。我が部下の遺族をして窮する者無からしめ給わらん事を、我が念頭に懸かるもの、これあるのみ」
自らの死よりも、残された仲間の家族が困窮しないように。それが、極限の中で佐久間大尉が一番強く願ったことでした。
この遺言は、事故後大きな反響を呼びました。日本国内はもちろん、海外からも感嘆と惜しみない賛辞が寄せられます。
当時の修身教科書には「沈勇(ちんゆう)」――沈みつつも勇気を貫いた精神として、佐久間と乗組員の行動が掲載され、夏目漱石も著書の中で彼らの精神を讃えました。
アメリカではセオドア・ルーズベルト大統領がその遺言の銅板を設置し、イギリスの王室海軍にも第六潜水艇の資料が残されています。
「最期まで責任を果たし、仲間と部下を思い、未来に希望を託す」――その精神は、国境を越え、多くの人々の心を打ち続けているのです。
今の時代、私たちはさまざまな困難や不安に直面します。ときに自分のことで精一杯になり、周囲への心遣いを忘れがちになることもあるでしょう。
しかし、佐久間勉が極限の中で見せた「仲間を思う心」「最後まで責任を果たす覚悟」「未来への希望」は、今を生きる私たちにこそ大きな示唆を与えてくれます。
これらは、どんな仕事や人生の場面でも応用できる普遍的な価値観ではないでしょうか。
第六潜水艇の事故から110年以上が経ちました。しかし、佐久間勉と14名の乗組員が示した「仲間を想う心」は、時代を超えて私たちの背中を押し続けています。
「自分のため」ではなく「誰かのため」にできること。
佐久間勉の遺したメッセージは、きっとあなたの人生にも新しい光をもたらしてくれるはずです。